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相模原歴史シリーズ(番外編) 小沢古城、小沢城、田代城、細野城 |
はじめに
相模原市に関連する歴史として津久井城などを記載してきたが、津久井城にも関連する=相模原に関連する歴史として、愛川町内の城や伝説についてご紹介したい。
小沢渡船場
まずは相模原と愛川町を結ぶ交通の要所の話から入りたい。
現在の相模原市田名にある水郷田名と、愛川町小沢の相模川には「高田橋」がかかるが、昭和の時代までは小沢の船渡しがあり、古くから交通の要所だった。
特に、戦国時代、小田原北条氏が相模国を統一すると、北の守りである滝山城(八王子)と小田原を結ぶ経路の1つとして重要な役割を持った。相模川から西の10村で船2艘を所有し、舟渡しを行うことを小田原北条氏から許されていた。
また、江戸幕府になってからは、相模川に橋を掛けることが禁じられた為、小沢の渡しは続き、新編相模国風土記(1840年前後)には「渡船場が相模川にあり、武蔵国八王子に行く所に、船二艘を配置。高座郡田名村と結ぶ」との記述がある。
田名と小沢の関係は「相模原の道・街道」でも少し触れている。
小沢古城(こさわこじょう)と小沢城、小沢要害
相模原側から見ると水郷田名「高田橋」の愛川町側にあたる、相模川のすぐ横にそびえる標高80mの山が小沢古城になる。
のちの世、すぐ近くにできたとされる小沢城と区別する為、小沢古城と呼ばれている。
鎌倉時代初期に相模国北部まで支配していた横山党の一族、小沢氏の居城が始まりとする説がある。相模川の東に当たる現在の相模原市田名には同じ横山党一族の田名氏が居住していた。横山党については横山党と相模原をご覧頂きたい。
その後、小沢城には村山党の金子氏が入ったようだが、鎌倉後期か平安時代に小沢を領し、戦国期に入って小沢古城・小沢城を築いたと思われる。
室町時代初期、相模国東部は関東管領・扇谷上杉家(上杉氏の宗家は山ノ内上杉氏、山内上杉氏)が支配するところとなっていたが1477年、扇谷上杉氏の家臣だった長尾景春が、扇谷上杉氏の家宰(執事)であった太田道灌の駿河出張中に、主君に対して反乱(長尾景春の乱1467年〜1480年)を起こした。
その際、同じく山内上杉家の家臣だった、相模の国人衆の多くも長尾景春に味方した。その中の金子掃部助(かねこかもんのすけ)も長尾景春に味方して「小沢というところに要害を築いた」との文献が残っている。

江戸城にいた太田道灌は、1477年、謀反を起こした石神井城を夜討せんと策すが、味方の相模勢が多摩川増水により、渡河できず断念。
直ちに矛先を変えて、相模国で長尾景春についた諸将を掃討する作戦に変更した。
太田道灌は相模勢と合流して、金子掃部助が守る小沢城は1477年1月?に攻撃。この時小沢城は相模川に面した山と難攻不落の堅城で、約2ヶ月間(1ヶ月間?)も篭城したと言われている。
その為、太田道灌は長期戦に備えて、河越城に甥の太田資忠と上田上野介、江戸城には上杉朝昌(太田道灌の主君上杉定正の弟)と三浦高救(上杉定正の兄)、吉良成高、大森実頼、千葉自胤を入れて武蔵の守りを強固にする。
太田道灌は3月18日に厚木の溝呂木城を攻め、溝呂木正重は城に火を放って逃亡。そして、小磯城(中郡大磯町)の越後五郎四郎も降伏した。
小沢城では長尾景春党の宝相寺・吉里宮内勢が小沢城を後詰し、その間、太田道灌は扇谷上杉氏の小山田城(町田市)を攻略。ただし、後詰したのは小沢城へではなく、長尾景春側の吉里宮内、実相寺らは小山田城を攻略して太田道灌を牽制したとする説もある。
しかし、ついに1477年4月18日、小沢城は落城。名将・太田道灌に敗れた金子掃部助は討死?したと言う説もあるが、生き残り翌1478年、金子掃部助は再度、小沢要害に立て籠もるが、長尾景春方の拠点・小机城の陥落に伴い自落したと言う説もある。
小沢古城より南東約150mに位置した標高119mの場所を小沢城とする記録があり、小沢の地に城が2つ存在したことになるが、歴史的区別や役割などはハッキリしない。小生は小沢古城こそが小沢城だと考えていおり、小沢古城も小沢城も同じ山城を指すと言う説を唱えている。小沢要害は難攻不落と言う事もあり、小沢古城の事だと考えるのが妥当か・・。
なお、多摩川に近い小沢城と混同しやすいので注意が必要。
津久井から愛川町半原のあたりは、古く「奥三保」と呼ばれ、長尾景春の乱で敗れた相模国の残党が奥三保に隠れた。翌年1478年、太田道灌は村山に陣取り、舎弟の太田図書助と同六郎を大将として奥三保の残党を攻撃。郡内小山田氏の分家である上野原の加藤氏を含む残党は甲斐まで追いやられた。
なお、この際、磯部城はこの時小沢城の支城として築城開始されていた。未完成のうち、翌1478年、太田道灌の攻撃により落城したと考えられており、磯部城については当麻山無量光寺と当麻城・磯辺城・堀の内でもご紹介しているのでご高覧頂きたい。
名将・太田道灌は、農兵(雑兵)を組織化すると言う軍事革命を起こし、戦では圧倒的に強かったが、その能力が主君をこえていたので、しばしば問題を起こし、1486年ついに主君・主人上杉定正に暗殺された。秦野で命を落としたと言われている。
長尾景春の乱の後、金子氏は北条氏の支配下となっても小沢の土豪として存続しており、小沢古城の要害性に加え、小沢古城より南東約150mに位置した標高119mの場所は、東面の相模川面こそ絶壁だが、北面・西面・南面からの防御は弱く、とても城を築いたとは考えられない。その為、平和な時代がやってきて、地域支配に便利な新しい「小沢城」と言うよりは「館」を築いたと考えると理解しやすい。
小沢城は小田原北条時代にも改修されたようで、小田原北条氏特有の遺構が認められると言うが、史実にでるほど重要ではなかった。
現在では、毎年夏に対岸の水郷田名で花火大会が実施され、小沢古城を挟んで大きな花火8000発が轟音と共に打ち上がる風景が見られる。
稲城市にも同名の小沢城がある為、古い文献では稲城の小沢城と混同しやすいので注意が必要である。鎌倉時代、源頼朝の重臣・稲毛重成の子である小沢小太郎は稲城の小沢城が居城だったと考えられる。
金子氏
金子氏はもともと平安時代末期・武蔵七党の一つ村山党の一族で、村山家範が入間郡金子郷に居住し、金子六郎を称して金子氏の祖となった。鎌倉・室町期に小沢を領したようだ。
1400年代に入り武蔵国国人として山内上杉氏に属した金子氏は、長尾景春に強力した。
その後、入間の金子郷は安堵されていたようで、戦国時代には小田原北条氏に属している。
豊臣秀吉の小田原攻めでは、金子紀伊守家基が武蔵松山城を守るが降伏。
金子三郎右衛門は八王子城内金子丸を守って討死している。
その後、子孫は上杉景勝を頼り、京都守護代板倉勝重に仕え、のち毛利家に仕えた。
有鹿姫(あるかひめ)
小沢城の金子掃部助には悲話として有鹿姫伝説が残る。
太田道灌に小沢城が攻撃され、城主・金子掃部助は、小沢城を捨てて敗走した。
この金子掃部助には、美しい姫君がおり、姫は早くから有鹿の地(海老名の河原口)に住む海老名氏系の若君と婚約中で、海老名館に来ていたが「小沢城危うし」と言う声に、急いで小沢城に戻った。
しかし、時すでに遅く父の金子掃部助は戦死、母は行方知れずと聞き、すっかり生きる望みを失った。覚悟を決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧をして、まだ燃えている小沢城を後ろに、天に向かって手を合わせると「ざぶん!」眼下の相模川に身を投げた。
すると、美しかった姫の体は、たちまち恐ろしい大蛇に変わり、大きくうねりながら下流に向かって泳ぎ出した。途中、六倉という所で大きく身震いすると、相模川の水が舞い上がり、中津の原に大きな水たまりができた。
さらに水しぶきを上げながら進み、河原口に近ずくと、姫は再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社の裏の河原に打ち上げられた。
神社の氏子らは、海老名の地に嫁ぐ日を夢みていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の片隅に、その亡きがらを葬った。
現在、海老名市の有鹿神社と有鹿小学校の間には、若くして散った有鹿姫をしのぶ碑が建てられている。
ちなみに、1439年永享の乱で嫡流の海老名氏は滅亡しており、1477年の長尾景春の乱の時には、諸流と考えられる海老名左衛門が太田道灌と戦い討死している。のち、小田原北条氏の家臣にもなっていることから、諸流の血筋は耐えなかったと考えられる。
田代城と細野城(新野城)
田代城は、小田原北条氏家臣の内藤下野守秀勝(内藤秀勝)が半原・田代・角田を領して1555年〜1558年位に築城されたと考えられる。
田代中学校付近には居館が構えらたと考えられ、背後の山には、狼煙台が設けられたようだが、行政の拠点としたようだ。
細野城(新野城)は、愛川町役場の裏山で、田代城から中津川を挟んだ対岸にある標高170mにある山城で、防御目的の城。
築城は田代城から少しあとになる1557年〜1570年くらいとされ、同じく内藤秀勝が築城したようだが、田代城・細野城についてはハッキリとはわかっていない。
内藤氏は津久井衆である内藤氏の支族と考えられ、内藤秀勝は小田原北条氏の家臣として半原・田代・角田を137貫を知行した。
内藤秀勝には子の内藤秀行(内藤三郎兵衛秀行)がおり、またその子には内藤定行と、代々受け継いだようだ。
半原の勝楽寺には内藤秀行の墓があり、清雲寺も内藤秀行の開祖とされており、内藤秀行が田代城に居たのは間違えない。
なお、津久井城最後の城主説の1人である内藤綱秀は、この田代内藤氏から出たとも考えられていることからも、田代城や細野城(新野城)は、津久井城と小田原の連絡中継点として支城的役割を持っていたものと考えられる。1569年、武田と北条の戦「三増峠合戦」の主戦場にほど近く、合戦史料に田代城や細野城の名前こそ出てこないが、地元では内藤秀行の代の時であり、武田信玄によって三増峠の戦いの直前に落城したと言われている。田代城は三増合戦後に廃城となったようだ。
また、内藤氏は小田原北条氏の没落に殉じ、その後の消息は不明である。
津久井城については、津久井城と三増峠の戦いのコーナーをご覧頂きたい。
溝呂木城
溝呂木城は神奈川県厚木市にあると考えられているが、実はどこにあったかが定かではない。
厚木市の推測では、相模川・中津川・小鮎川の3つの川が合流する地点、現在、厚木パノラマタワー(国土交通省厚木無線中継所)がそびえ立つ付近と推定されており、なんでも、付近には溝呂木という名の家も古くからあると言うことだが、城の遺構などは一切発見されておらず、溝呂木城の場所は定かではないと言うのが正しい。もっとも、相模川の洪水により、昔と今では地形がかなり変化しているとも考えられる。
長尾景春の乱の時、溝呂木城主は溝呂木正重と言う説があり、城に火を放って逃亡したとも言われている。
参考
埋もれた古城HP、古城を歩く、ウイキペディアなど
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