相模原歴史シリーズ
縄文人がつけた古い地名


 旧石器時代から人々は生活していた

 相模原の相模川近くは少なくとも約20000年前には日本人の生活した跡が伺えます。縄文時代には大規模な集落もありました。
 弥生時代になると稲作が持ち込まれ、当麻の辺りでも稲作が古くからあったようです。飛鳥時代以降は中央から派遣された大和政権の役人が、相模原の各地を治めていた事を思わせる古墳群も規模的には小さいながらも発見されています。
 相模原市博物館に行くと、古代の暮らしの展示があり、学ぶことができます。常設展示は入場無料ですので、是非訪れてみてください。

 興味深い地名の由来

 大変興味深い説では古く縄文時代の頃、日本列島に原ポリネシア語(現在のマリオ語)を話す民族が、太平洋南方から渡来して、日本列島に住み着いた人々が、原ポリネシア語で、日本各地に初めて地名を付けていたと言う説です。
 古い時代に付けられた地名は、昔も今もあまり変わらない発音で、今でも使われています。 
 古事記、日本書紀などの古典や、日本語の中にも、多くの原ポリネシア語源の言葉を見出すことができます。
 漢字は朝鮮から渡来人によって伝わってきたものですので、元々あった名に、適当に当て字されたものであることは言うまでもありません。
 まずは相模原とは関係ありませんが、付近の有名な地名や山の語源からご紹介します。

 富士山
 
 富士山の「ふじ」は、マリオ語で
 「フチ」、(HUTI)、「引き上げられた(または釣り上げられた山)」の意味になります。
 浅間神社は熊野神社と並び、神社でも最古の部類と考えられていますが、静岡県富士宮市には、浅間神社よりも歴史が古いと思われる、富士山の神を祀る「式内社富知(ふち)神社」があります。

 筑波山

 筑波山は2つの峰を持ち、その峰を「女体山」「男体山」と呼び、夫婦の山としても万葉集などでも歌われています。
 この「つくば」は、マリオ語で
 「ツク・パ」(TUKU-PA)、「(男女が歌垣の)交際を許される(山)」と意味されます。 
 
 町田市

 町田(原町田)は、境川が流れ、その斜面にあります。この「まちだ」は、マリオ語で
 「マチ・タ」(MATI-TA)、指2本を並べた状態を思い浮かべたようです。「指(のように尾根が分かれた丘陵)が浸食されている(崩れている地域)」 と意味されます。

 江ノ島

 海の上を渡って行ける珍しい江ノ島の「えの」は、マリオ語で
 「ヘ・ノ」(HE-NO)、「(長く続く単調な砂浜の中にあって)場違いな(嶮しい岩場のある島)」です。
 ※「ヘ」のH音が脱落して「エ」となった
 又は「アイ・ノ」(AI-NO)「(境川が)産み落とした子供の(島)」
 ※「アイ」のAI音がE音に変化して「エ」になった

 相模国(さがみ)

 江戸時代まで相模国と呼ばれていたのは皆様ご承知の通りですが、「古事記」では「相武国」、歌に「佐賀牟(さがむ)」と記し、「和名抄」では「佐加三(さかみ)」との記述があります。 
 相模の語源は
  1.足柄箱根から見下ろす「坂見」の国(「倭訓栞」)
  2.足柄二郡は山で、平地が少ないことから「峻上(さかがみ)」(「類聚名物考」)
  3.「身狭上(牟佐上。むさかみ)」から
  4.古代朝鮮語の「サガ(寒川)」から
 などの諸説があります。
 この「さがむ」、「さかみ」は、マオリ語の
 「タ(ン)ガ・ムイ」(TANGA-MUI)、「人々が群集して作業をしている(狩りをしたり、耕作をしたり、地引き網を引いたりしている)地域」
 「タカ・アミ」(TAKA-AMI)「山が集まって高くなつている(地域。丹沢山塊を中心とする地域)」
 又は「タ(ン)ガ・ミヒ」(TANGA-MIHI)、「尊敬すべき部族(の住む土地)」 と考えられます。

 さて、いよいよ相模原の地名に入ります。

 相模原市の鳩川

 この「はと」はマオリ語の
 「パト」(PATO)、「割れ目(川)」と言う意味になります。
 例えば、勝坂遺跡のすぐ横には谷戸(侵食された谷状の地形で)があり、そのに鳩川が流れています。
 ※(P音がF音を経てH音に変化して「ハト」になったようです

 相模原市橋本

 「はしもと」はマリオ語の
 「パチ・モト」(PATI-MOTO)、「拳で殴られたように浸食されている水の湧き出る(場所)」です。
 橋本には、湧水がある台地に集落を築く縄文時代の特徴がある遺跡もあります。
 ※「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」から「ハシ」になった

 淵野辺
 
 「ふちのベ」はマリオ語の
 「フチ・ノペ」(HUTI-NOPE)、「引き上げられて圧縮された(土地)」と言うことになります。

 津久井

 「つくい」は、マオリ語の
 「ツ・クイ」(TU-KUI)で、「(相模川の)上流に位置する(地域)」 の転訛のようです。
 津久井については津久井の地名でも触れていますが、旧石器時代の遺構も見受けられます。

 藤野町

 「ふじの」は、マリオ語の
 「フチ・(ン)ガウ」(HUTI-NGAU)、「浸食された高台」
 ※「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」になった

 道志川

 「タウチカ」(TAUTIKA)、「真っ直ぐ(に流れる川)」
 ※AU音がOU音に変化し、語尾の「カ」が脱落して、「トウチ」から「ドウシ」になった

 相模湖町寸沢嵐
 「すあらし」は
 「ツアラ・チ」(TUARA-TI)、「(山の)背中に放り出されている(場所)」と言うことで、まさにその通りの地です。
 ※寸沢嵐地区のある右岸は傾斜の緩い段丘となっており、縄文時代の遺跡もあります。


 総評

 旧石器時代から縄文時代の頃は、北方面はシベリアから北海道に人間が入り、南方からは、フィリピンの方から、台湾→沖縄→日本列島と多くの渡来人がやってきたのでしょう。
 原ポリネシア語は沖縄の先島諸島では、まさにそのままのマリオ語が、現在の地名になっている率が高く、また日本で最も古い時代からあるとされる、南紀の熊野神社の名前は「民族の長」に関係する原ポリネシア語から成り立っています。
 このように文字が無かった縄文時代から呼ばれていた土地の名前はあったと考えられます。
 しかし、弥生時代に入りヤマト政権の時代までに100万人とも言われる朝鮮半島などからやって来た弥生人が日本列島に住み着くと、縄文人は衰退し、飛鳥時代には「漢字」と言う文字が入り、それまで呼ばれていた地名に、日本語として「漢字」をあてはめていったものだと容易に考えられます。
 縄文時代の1万年間は争いがなかったと言われますが、水稲耕作が持ち込まれた弥生時代は「定住」することになり、土地の利権争いが起こるようになり、また縄文人は弥生人が持ち込んだ結核に対する抵抗がなく、日本人の多くは弥生人になったと言う説もあるくらい、古くから日本に住んでいた縄文人は、弥生人に圧倒されることになります。
 また、古くからある地名でもすべてポリネシア語(マリオ語)と言うわけではなく、北海道などにはアイヌ語が語源の地名であったり、のちの歴史により、大きく変化した名前や新しくついた名前もあります。例えば清兵衛新田=清新のように・・。


 相模の本当の語源は?

 上記では古代マリオ語からの語源として記載して参りましたが、相模の語源を色々と考えるうちに、小生は下記の結論に達しました。
 日本古来より「サ」がつく名はすべて「神様」に関係するとまず考えました。
 神社の敷地内は「境内(けいだい)」と言う様に、神様と我々は境目があり、神と人間の境目を「サカイ(境)」、その垣根が「サク(柵)」です。
 神様が山から「さと(里)」に下りてくる道を「サカ(坂)」、「さなえ(早苗)」を作り、田植えの時期(5月)を「サツキ(五月)」、米作りに欠かせない長雨を「さみだれ(五月雨)」、田植えをする若い女性の事は「さおとめ(早乙女)」と呼びます。
 山に住み神の使いとされたのは「サル(猿)」、山の中で迷う事を「さまよう(彷徨う)」、「ササ(笹)」や「サカキ(榊)」は神聖な植物です。
 神様には「ささげもの(捧げ物)」を「ささげる(捧げる)」為、そのお供え物で最も使われる物は稲から作った「サケ(酒)」で「サカズキ(杯)」に入れました。食べ物として「さかな(肴)」を添えて「サラ(皿)」に乗せました。
 祭りを行う際のサ神様の貴賓席は「サジキ(桟敷)」と言い、庶民は地面の芝に座ったので、芝居と言う言葉も生まれました。
 子供を「さずかる(授かる)」、そして嬉しいことや幸福を「さいわい(幸い)」と言い、サ神に祝ってもらう事を意味します。「サチ(幸)」は、サ神にたくさん集まってもらいたいと言う意味で、このように古来より使われる神様に関連する言葉は「サ」から始まります。
 このように、サが使われる理由としては、なんでも日本で一番古い神様は「サの神」であるからです。
 サの神は山の神様で冬は山に篭り、暖かくなると里に降りて来ると考えられていました。3月下旬に暖かくなると「サクラ(桜)」が咲く訳です。
 すなわち、大山信仰が石器時代よりあり、縄文時代には豊作を祈願したと考えられます。
 このようにサガミと言うのは「サ神(サの神)=山の神」と言う表現がそのまま使われ、朝鮮から漢字が日本にやってくると、サガミには当て字で相模と言う漢字がついたと小生は考えます。
 この他、日本は古来より自然信仰でしたので、サがつく国の名は多いです。薩摩、讃岐、佐渡、上総、下総、若狭、土佐、武蔵など。
 相模国一宮の「寒川神社」も「サ」=神が「ム」=住む、川=相模川の神社と考えられ、実際、現在の相模川から800mくらいしか離れていない場所に、寒川神社はあります。
 朝鮮より渡来人により漢字が日本に入ると、サムカワ神社は当て字で「寒川」と付けられたのでしょう。
 古代には相模湾が寒川の辺りまで来ており、相模川の河口付近だったと考えられていますので、この寒川神社の名前の由来を考えると、現在相模川と呼ばれている川の名の由来も、古くはサムカワと呼ばれ=神の川と言う意味であったと容易に推測できます。 
 そんな神様に感謝しつつ、サケを飲みながらサクラを見て、ササゲものをお供えし、日本人として神様に「さからわない(逆らわない)」ように敬い、サチ(幸)を得ましょう。

 おまけ 海老名と座間の本当の地名由来

 海老名と言う地名、珍しいですね。海からも結構離れているのに、海老(エビ)と言う、海の生き物の名前がついています。もっとも、エビは池などにもいますが、海老名の場合、エビは、エ(江)・ミ(曲がった所)で、「川の曲流」ことで、ナは場所を示す接尾語だと考えられます。
 座間と言う地名ですが、座間は元々「イサマ」と呼ばれたそうです。当然ながら漢字は後世の当て字です。しかし、この座間は大変興味深い地名です。なぜイサマと呼ばれたのか? 小生はこう考えます。
 イサと言うのは、神の名前に由来すると考えます。イサナギとイサナミと言うとわかりやすでしょうか。要するに日本を征服した大和朝廷としての男性神と女性神です。
 それよりも、もっと前の古代には勝坂(相模原市)に有鹿神社(あるか)がありました。勝坂遺跡では今から約5000年前に、既に祭祀が行われていた跡も発見されています。
 その後、有鹿神社は海老名に移りました。恐らくは、海老名辺りを征服した新しい勢力(鈴鹿?)が、地元民に慕われていた有鹿神社を強制的に移したのでしょう。鎌倉時代には、当時では大変貴重な、神社界の最高位である「正一位」を朝廷より賜ってるほどの格式です。社殿は豪華で広大な境内に12以上の坊舎があったとされま。なお、元々の場所の勝坂には、現在も有鹿神社の奥宮が残っています。
 最初にできた勝坂の有鹿神社は、相模国で最古の神社とされており、祭られている神様は有鹿比女命(女性神・水神)です。海老名に移り大きくなった本宮の有鹿神社は有鹿比古命(男性神・太陽神)となっています。要するに、男性神と女性神の間の場所=イサのマが「座間」なのだと小生は考えます。
 有鹿神社には奥宮・本宮の他に、昔は「中宮」もありました。現在は、中宮は移動して本宮のすぐ近くにありますが、古代には座間の辺りにあったそうです。この意味からも、男女神(イサ)のあいだの地(マ)が、座間であったことを知る事ができます。
 ちなみに、相模国一宮の寒川神社の祭神も、寒川比古命と寒川比女命と、男性神・女性神を祭っており、神奈川県で古くから生活していた民は、太陽信仰と農耕に基づいた神様を信仰していたことが伺えます。サムは「神(カム)」と言う語源から来ているとも推測されます。


 参考・引用
 
 夢間草廬 全国各地の地名に関して素晴らしく研究されています


 相模原の旧石器時代・縄文時代

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