相模原歴史シリーズ
江戸時代の相模原


 はじめに

 1590年小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、相模国も徳川家を中心に知行された。その後、1700年代後半まで約200年間、相模原も領主が目まぐるしく変わる時代が続いた。
 まずは徳川家康が関東に入った1590年からの相模原をご紹介しつつ、江戸時代の相模原について記載する。

 大島・田名・当麻・磯部・新戸

 北条滅亡後の1590年当時、相模では座間を中心に鎌倉から津久井までの各村約5000石を治めていた内藤清成(1555年〜1608年)の一領地となる。他には座間宿村(座間市)などがあり「相州当麻五千石」と呼ばれた。
 内藤清成は1592年、本多正信や青山忠成らとともに関東総奉行になった。
 相模原市新戸には内藤清成が設けたとされる新戸陣屋跡があり、相模原の新戸村、磯部村、当麻村、田名村、大島村を領する役所として活用したようだ。新戸陣屋には、小田原北条氏時代には座間一帯を治めていた名主の安藤主水を代官に起用。
 内藤清成は、1601年加増され、常陸・下総・上総・相模の4国内に21000石になる。
 しかし、江戸付近の禁猟地で百姓が鳥を捕まえる為の罠や網を仕掛けるのを許可した罪=禁制を破った罪で、徳川家康の勘気を受け罰せられた。
 元々、内藤清成の判断は農作物を荒らす鳥害に苦しんでいる農民に対しての救済処置であったが、徳川家康はそれを承知した上で、幕府の権威を示す為、あえて重臣を罰したと言われている。それゆえに、所領没収にはならなかった。
 内藤清成の子・内藤清次は3代将軍になる徳川家光の守役となり出仕。
 1608年内藤清成が死去後、内藤清成の子・内藤清次は、常陸国などに26000石を拝領。それ以降、大島・田名・当麻・磯部・新戸は別の旗本が領したようである。
 内藤清次は3代将軍・徳川家光の頃、幕府最高職の老中にまでなった。内藤清次の弟・内藤清政は安房勝山藩3万石初代藩主。
 ちなみにも東京の新宿も内藤氏の領地(内藤新宿)であった。

 上溝・下溝

 1590年当時は、約5000石を領した青山忠成(1551年9月6日〜1613年4月10日)の1領地となる。他には、今泉村(海老名市)、小稲葉村(伊勢原市)、城所村(平塚市)などを領した。
 青山忠成は三河国額田郡百々村(現在の愛知県岡崎市)出身。1585年2代将軍・徳川秀忠の傅役。1592年関東総奉行。一時は江戸奉行も兼任し18000石。
 青山忠成の長男・青山忠俊は、3代将軍・徳川家光の養育係となり、将軍の世継ぎ問題では春日局と協力した功労者だ。1619年には江戸防衛で重要な岩槻城主となり45000石の大名となった。しかし、徳川家光が将軍になった1623年の10月に原因は不明だが突然謹慎処分となり所領没収。謹慎後の青山忠俊は、一時網戸(下総)にいたが、その後この下溝の天応院の門前に長屋を建て、青山忠俊主従と約10ヶ月生活した。その後、徳川家光も反省し1632年に赦免され、青山忠俊の子、青山宗俊、青山宗佑が徳川家に仕えた。
 青山氏は蒲生氏の一族で、子孫には丹波篠山6万石、郡上八幡52000石で大名家になった人物もおり、嫡流の多くが幕閣の重職についた。
 ちなみに、東京の青山の地名は、原宿村にあった「青山氏の上げ地」と呼ぶべきを青山と省略して呼んだ事から名づいている。

 下九沢

 1698年からは、佐野勝由(佐野信濃守勝由)と、加藤明教(加藤三左衛門明教)の2人が下九沢を分割知行して幕末に至った。
 加藤氏は、書院番を勤め、所領は下野国都賀郡内の6村が中心で、相模国では4村のうち、1つがこの下九沢52石であった。加藤氏が知行したと考えられる鳩川沿いは竹薮があり、毎年江戸城内の暮れの掃除道具「竹箒(たけぼうき)」にと、下九沢の竹を献上した為「やぶ加藤」と呼ばれていたようだ。
 ちなみに、この加藤明教(加藤三左衛門明教)は、豊臣秀吉・徳川家康に仕え活躍した加藤嘉明の子孫の分家と考えられる。
 佐野氏は下九沢では37石であったが、合計3000石の旗本で、佐野勝由の娘は松平資俊(本庄資俊)の正室となっている。松平資俊(本庄資俊)の父・本庄宗資の姉は、のちに徳川綱吉の生母となった桂昌院。父・本庄宗資は800石程度の旗本であったが、あれよあれよと加増され、下野・足利藩初代藩主で譜代大名となり、のち常陸・笠間藩40000石になった。  その本庄宗資の2男である松平資俊(本庄資俊)の正室として佐野勝由の娘が入っていた訳だが、松平資俊(本庄資俊)は笠間藩2代藩主を継ぎ、70000石で遠江・浜松藩初代藩主になった大名であり、1705年3月23日に第5代将軍・徳川綱吉より松平姓を与えられた名家である。
 ちなみに浜松藩の2代藩主には佐野勝由の2男が養子に入り松平資訓として藩主を継いでいる。

 なお、知行割の担当者であった内藤清成や青山忠成や、佐野勝由・加藤明教らは江戸に屋敷があり、相模原には住んでいない。

 上九沢

 甲斐・武田氏の末孫と称する笹野氏が名主であり、その分家から名僧・南山古梁(なんざんこりょう)が出た。南山古梁は、仙台藩伊達氏の菩提寺である瑞鳳寺(ずいほうじ)の14代住職までなった。
 笹野家の長屋門が相模原市登録有形文化財として保護されている。

 鶴間

 徳川家旗本の大岡義成(大岡吉重郎義成)(?〜1598年)が上鶴間360石のうち300石で入る。残りの60石は徳川家直轄地。大岡氏は鶴間以外は知行しておらず、鶴間が本貫(本領)である。
 のち330石に加増された大岡氏は「矢口」を中心に江戸末期まで上鶴間を知行した。現在でも上鶴間に墓碑が残っている。
 大岡氏は、三河発祥の大岡氏一族と考えられ、徳川家譜代の家臣であると考えられる。そうであれば、町奉行で知られる大岡越前守とも先祖は同じと考えられる。
 また、1625年からは長谷川正成(長谷川筑後守正成)にも鶴間の一部与えられ、大岡氏と二給になった。
 長谷川氏は駿河小川(焼津市)の土豪で「長谷川長者」と呼ばれていた。
 長谷川正成は今川義元→徳川家康に仕えた駿河・小川城主・長谷川正長の長男。父・長谷川正長は三方原の戦いで武田勢に討たれた。その後、長谷川正成は13歳で徳川家康の近習となり、高禄の旗本に昇進し、海老名の門沢橋村を本貫地として合計1751石となった訳である。なお、この長谷川氏の子孫には「鬼平犯科帳」の平蔵もいる。
 なお、長谷川正成は徳川家康の影武者であったとも言われている。

 相原・矢部・淵野辺

 徳川家康関東移封の1590年当時は、徳川家の直轄地で、代官頭として彦坂元正(彦坂小刑部元正)(?〜1634年)が統治した。
 彦坂元正の父・彦坂光景は今川家・今川義元に仕えていたが、今川家没落後は父子とも徳川家康に仕え、奉行としても活躍。武田氏滅亡後の1589年には、徳川領だった三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国の総検地を奉行として取り仕切る。江戸入府後は江戸町奉行職。関が原の戦いでは小荷駄奉行。戦後、石田三成の居城・佐和山城の引渡し、毛利氏が支配していた石見銀山の接収なども行っている。
 江戸幕府になってから彦坂元正は大久保長安、伊奈忠次、長谷川長綱らと関東代官に任ぜられ、岡津(横浜市泉区)に陣屋を置いた。伊豆国の金山奉行も兼任し、特に東海道の宿場町整備などに功績を残している。
 渕野辺は関が原以後、岡野氏が知行した。(このページ内にて説明有)

 鵜野森

 1590年当時は、徳川家の直轄地で、直轄領管理をした代官・彦坂元正が当初統治したが、永井白元(永井弥右衛門白元、永井監物)が1596年頃、戸塚(横浜市)に330石で代官屋敷を置き、後に3530石になった際の1625年から鵜野森も知行したと考えられる。
 永井白元は旗本として使番、目付役などを歴任。東海道・中山道の普請奉行、一里塚などを設置した人物である。永井氏は鵜野森を幕末まで知行した模様。


 その後の支配
 
 幕末まで各地の支配者が固定した訳ではなく、改易などで、相模原市内の各地も支配者がめまぐるしく変わることになる。大半の領主は本貫地(本領地)が別の土地(藩など)にあり、その石高の不足を補う為に与えられたものである。このような支配を受けたのは神奈川県内でも相模原市・座間市と海老名市の一部、厚木市の一部だけのようだ。

村名 領主の移り変わり
相原 幕領→久世広之→幕領→藤沢次政・佐野勝由(2給)
橋本 幕領→久世広之→幕領→藤沢次政・石野兵衛・別所孝治・高木元茂(4給)
小山 幕領→久世広之→幕領→藤沢次政・大久保常春(2給)
矢部 幕領→大久保常春
矢部新田 幕領→鈴木直澄・伊与田正英(2給)→鈴木氏・大久保常春(2給)
淵野辺 幕領→岡野英明・幕領→岡野貞明・岡野友明・久世広之(3給)→岡野本家・岡野分家・大久保常春(3給)
鵜野森 幕領→永井白元
鶴間 幕領・大岡義成(2給)→長谷川正成・大岡氏(2給)
上九沢 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→幕領→大久保常春
下九沢 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→幕領→佐野勝由・加藤明教(2給)
上溝 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→幕領→佐野直行・石野兵衛・別所孝治・高木清長・森川重良・戸田忠位(6給)→佐野氏・石野氏・大久保常春・高木氏・森川氏・戸田氏(6給)
下溝 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→阿部正喬→井上正長→幕領→大久保教寛・大久保常春(2給)
大島 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→大久保常春
田名 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→大久保常春
当麻 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→阿部正喬→千葉季佐・折井正職(2給)→千葉季佐・幕領(2給)→千葉氏・大久保教平(2給)
新戸 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→阿部正喬→井上正長→土屋利意・岡部長興(2給)
磯部 内藤清成→幕領→徳川忠長→幕領→松平信綱→幕領→増山正利→久世広之→阿部正喬
→幕領・町野三安・深谷盛重・大津勝寧(4給)→大久保教平・町野氏・深谷氏・大津氏(4給)


 淵野辺を幕末まで知行した旗本・岡野氏

 淵野辺は1590年当初、徳川家の直轄地だったが、関が原の戦い以降、岡野氏が淵野辺を所領とした人物として文献に残ることになる。
 岡野家の先祖は小田原北条氏の評定衆であり、特に外交において秀で、内政にも名を残している有名な「板部岡越中守融成(板部岡江雪斎 いたおかべこうせつ)」(1537年〜1609年)だ。
 板部岡江雪斎は伊豆下田の出身で、真言宗の僧侶だったが、右筆として小田原北条氏に召し出され、次第に手腕を発揮し、評定衆にまでなったという説もある。しかし、一般的には、伊豆国田方郡狩野荘田中の「田中融成」と言う人物で、北条氏政の命により跡目がいなかった板部岡氏を継いだとされている。伊豆七島の代官職も兼任したと言われている。
 その田中氏は鎌倉幕府滅亡時、最後の執権であった北条高時の2男・北条時行が先祖とも考えられている。
 そんな板部岡江雪斎であったが、甲斐の武田勝頼が武田信玄死去後、その遺言どおり信玄の死を隠した際、信玄死去の噂が立ち、真相を探るべく北条氏政の命により病気見舞いと言う名目で板部岡江雪斎は甲斐に赴いた。しかし、影武者の武田信康を見抜けぬまま、北条氏政に「信玄生存」と報告してしまったことでも有名だ。
 ただし、板部岡江雪斎は弁舌に優れ、特に外交面で才能を発揮し、北条氏と上杉謙信・武田勝頼などとの諸勢力との交渉などを一手に担っていた。
 1582年、本能寺の変のあと、武田遺領を巡って、徳川家康と北条氏政が対立した際には、徳川家康の娘・督姫を北条氏直の正室に迎える策を遂行。このように、北条氏に有利な和睦を結ぶ交渉に成功している。
 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、交渉役として何度も豊臣秀吉に謁見。その時から、豊臣秀吉は板部岡江雪斎を高く評価していたようだ。
 小田原城開城の際には、北条氏直の夫人を守っていたが、無事に徳川家康に引き渡すと、板部岡江雪斎は生け捕りとなった。そして、今回の戦の責めを豊臣秀吉に問われたが「戦争を起こして主家が滅んだ事は江雪が思慮をもってもどうしようもない。もしろ滅ぶ運命だったのだろう。日本全国の大軍を迎えて一戦交えたのは北条氏の面目にとってこれ以上のことはない。遠慮せずに首を刎ねよ。」と述べところ、豊臣秀吉は考えを変え「はりつけの刑にでもしようと思ったが、主人を少しも批判しないこと、誠にあっぱれ。一命は助ける。今後は豊臣に仕えよ。」と板部岡江雪斎を許した。
 小田原北条氏の滅亡後は、豊臣家の御伽衆に取立てられ、豊臣秀吉の命により姓名を「岡野」と改めたのである。
 1592年には、下妻の多賀谷重経へ豊臣秀吉の命で交渉に出向いている。
 豊臣秀吉亡き後も、岡野氏(板部岡江雪斎)の評価は高く、豊臣秀吉が亡くなったあとは徳川家康に仕え、石田三成に与した小早川秀秋を調略し、1600年の関ヶ原の合戦では小早川氏の裏切りを誘うことに成功している。
 この功労に対しての知行加増の恩賞を岡野江雪斎は辞退したとされ、岡野江雪斎が馬好きだったことから、馬飼領として徳川家康が恩賞を与えたという。その後も、徳川家康に近侍したが、岡野江雪斎は、1609年6月3日、京都伏見で病没。享年69歳。
 なお、関ヶ原での多大な功績に、岡野江雪斎の子孫は徳川家に代々旗本として仕えた。
 岡野江雪斎には子がおり、長男・岡野房恒は岩槻城主・北条氏房に仕え、北条滅亡後は、恩田村の妻の実家に身を寄せた。その後、1591年徳川家康に召抱えられると、長津田・栗木で500石となり、長津田陣屋を構えている。以後、岡野本家は長津田を代々知行した。関が原では、父・岡野江雪斎と共に従軍し、大阪の陣にも参戦。
 岡野房恒は1624年、鉄砲同心30人預かりとなり、甲斐・八代の500石を加増。1632年には馬上同心5騎預かりとなり、1633年上総・香取で500石加増、計1500石となった。岡野本家歴代の墓は、長津田の大林寺にある。
 岡野江雪斎の次男・岡野房次(ふさつぐ)は、最初、北条氏政に仕えた。小田原落城後、徳川家康の娘婿であったことなどから助命された北条氏直の高野山送りが決定すると、岡野房次は、父の命により北条氏直に従って高野山に同行した。北条氏直の没後には、豊臣秀吉の命により北条氏の後を継いだ北条氏規の子・北条氏盛に従った。1604年、伏見城で徳川家康に拝謁すると、常陸・水戸25万石の徳川頼宣に使え、常陸国で500石を知行した。その後、徳川頼宣が駿河・遠江両国50万石に転封した際にはどうも駿府に移ったようだ。この徳川頼宣は、その後紀伊55万5千石に転封し、紀州徳川家の家祖となった。岡野房次は駿府にて1611年9月25日没。享年39歳。
 1626年、岡部房次の子、岡野英明(ひであきら)が現在の相模原市の淵野辺村(500石)の地頭となった。
 岡野英明は1604年、わずか5才の時、祖父・岡野江雪斎の口添えで、徳川家康に拝謁。幼少ではあったが、紀州徳川家の祖となる徳川頼宣の伽役を務めた。大阪の陣にも両方参加し、1626年小10人頭となり、淵野辺村など合計1412石となった。そして、朝鮮国信使来朝の際の上使や、御先手御鉄砲頭などを任された。
 1663年、4代将軍・徳川家綱が日光参拝の折には、病中の岡野英明も命により参加している。同年1663年8月25日没。享年64。
 岡野英明の弟で、3代目を継いだ岡野貞明は、大阪大目付役、長崎奉行などを歴任している。
 他の藩が飛地として相模原各地を目まぐるしく分割知行しても、渕野辺や長津田の岡野氏は、板部岡江雪斎の末柄として徳川家からの恩顧を受け、領地替えされることなく、岡野家が幕末までを代々知行した。淵野辺の龍像寺には岡野氏墓地がある。
 幕末には、勝海舟の父である勝小吉が、岡野家9代目・岡野融政の屋敷に居住していた。その際、勝小吉は、岡野家当主の放蕩や岡野家用人の年貢不正使用などを改めさせ、岡野家の窮状を救ったとされている。

 内藤氏・青山氏の転封後

 内藤氏・青山氏の転封後には、その領地は1615年〜1623年頃、一時、幕府直轄領となった。相模原市域の直轄領は、代官・守屋行広(守屋定佐太夫行広)が支配した。守屋氏については、津久井城のコーナーで触れている。
 相模川沿いの直轄領は、1627年に徳川忠長(松平忠長)の領地となり、代官には家臣の平岡吉道(平岡岡右衛門吉道)(ひらおかおかえもんよしみち)が入った。平岡吉道は、新戸の長松寺を復興させ、当麻宿の市場復活にも尽力したが、1632年徳川忠長が改易されると再び直轄領となり、守屋行吉(守屋定佐太夫行吉)が代官となった。
 その後、1633年に松平信綱の領地となると、郡方として田中与左衛門が支配した。1639年松平信綱が忍城30000石から河越城60000石になった際、再び直轄地となり、守屋行吉が再び代官となった。その後、1647年、増山正利の所領となった。

 将軍争いに敗れた徳川忠長

 徳川忠長(1606年〜1633年)は徳川幕府二代将軍・徳川秀忠と正室・お江与の間に生まれた男児で、3男にあたる。お江与は、浅井長政とお市(織田信長の妹)の間に生まれた三女で、姉は茶々=豊臣秀吉の側室・淀殿。
 徳川忠長の幼名は国松。生母のお江与が育てたこともあり容姿端麗だったようで、父と母の寵愛を受けることになり、一時は次期将軍と目される。病弱であった兄・竹千代(のちの3代将軍徳川家光)もお江与の子だったが、乳母であるお福(のちの春日局)が育て、お江与とお福との間で次期将軍争いの確執となった。よく春日局のドラマや映画で出てくる話である。
 1618年甲斐国に180000石。1620年元服し徳川忠長となる。
 結果的に長男であった徳川家光が3代将軍に就任すると、翌年1624年徳川忠長は駿河国・遠江国を与えられ甲斐国を合わせて550000石を領する。駿府城下の整備などで、兄・徳川家光にも劣らない優秀な政策手腕を発揮している。
 1626年8月19日には従二位権大納言となり、駿河大納言と呼ばれるが、1626年9月15日母であるお江与が54歳で死去すると、その後、理由なく農民を切ったり、家臣の手打、殺生禁断の駿河浅間神社で猿1200匹を狩るなど、数々の奇行が目立ち、大御所・徳川秀忠は徳川忠長の出仕を停止しする。徳川忠長は徳川秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、1631年5月甲府での蟄居を命じられる。徳川秀忠の死後の1632年10月20日には、徳川家光から駿河・甲斐両国を没収され、高崎(上野国)へ幽閉。処分が決定しないまま1年が過ぎ1633年12月6日に高崎城で自刀。享年28歳。
 相模原では大島・上九沢・下九沢・上溝・下溝・当麻・田名・新戸・磯部と領していたが、改易された際に没収され、徳川家光の信頼厚い松平信綱が1633年忍藩主になった際にそっくり与えられたようである。

 徳川忠長の領地を継いだ松平信綱

 松平信綱(1596年10月3日〜1662年3月16日)の父は大河内久綱。叔父である松平正綱の養子となり、松平姓を称す。幼少の頃より才知に富んでおり、1604年徳川家光の小姓となる。
 1627年1月5日10000石を与えられる。1632年11月18日老中並。1633年3月23日、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次が六人衆となる(後年の若年寄に相当)。1633年5月5日老中に就任し、忍藩(埼玉県行田市)30000石を封ぜられる。1637年〜1638年には島原の乱の鎮圧のため、九州に赴く。1638年11月7日老中首座。1639年1月5日、川越藩60000石に転封。川越街道や城下町の整備、野火止用水の開削などに手腕を発揮している。

 4代将軍と親戚になった増山正利

 増山正利(1623年〜1662年)を語る前に、お楽の方(高島御前、宝樹院)を知って頂きたい。
 お楽の父・青木三太郎利長は旗本・朝倉家に仕える下級武士であったが、主君の金を使い込み、禁猟だった鶴を撃ち死罪となった。その後、母とお楽の方は江戸に出て、古河藩主・永井尚政の屋敷に仕えて女中頭となったが、のちに母は古着商の七沢清宗と再婚。お楽も母に従い同居していたが、店の手伝いをしていたところ浅草参りから帰ってきた春日局の目にとまり、13歳で大奥に上がったとされる。(諸説あり)
 そのお楽は1641年に徳川家光の長男・竹千代(のちの徳川家綱)を産む。
 お楽の弟である増山正利は、姉が将軍後継者を生んだ為、親戚として1648年頃最初1000石で徳川家臣となる大立身となった。その後相模国で合計10000石の大名格に加増され、その際に、徳川忠長→松平信綱と知行していた大島・上九沢・下九沢・上溝・下溝・当麻・田名・新戸・磯部も与えられたようだ。
 1659年には三河・・西尾藩20000石(愛知県西尾市)の藩主となり、世間もうらやむ様な出世振りである。増山氏の子孫は、常陸下館→伊勢長島と藩主を勤め、幕末まで残った。

 4代将軍に終身仕えた久世広之

 1659年、増山正利の後に相模原の領地を受け継いだのは久世広之(1609〜1679)であった。
 久世広之の父・久世広宣は今川義元→徳川家康と仕えた戦国時代の武将で、下総・上総国2500石の旗本になっていた。
 久世広之3男であったが、のちに3代将軍になる徳川家光の小姓となり出仕。3代将軍・徳川家光の側近になると、4代将軍徳川家綱の守役を任された。1662年には若年寄、1663年老中と要職を歴任するなど異例の出世。1669年6月25日、関宿藩50000石12代藩主になる。
 久世氏は1663年の久世広之老中就任から1683年久世重之の備中庭瀬(岡山市)への移封までの20年間、小田原藩に次ぐ規模の所領を有していたという。1664年の記録では愛甲郡之内(津久井領) 23ケ村4454石、大住郡之内 酒井村(厚木市酒井)138石、高座郡(相模原市を含む)之内24ケ村とある。淵野辺(一部)、相原、橋本、小山、大島、上九沢、下九沢、上溝、下溝、田名、当麻、新戸、磯部に津久井23ヶ村と、現在の相模原市内大半を知行していた。
 相模国の役所は座間に設置。家臣の年寄衆・富田右善衛門と吟味衆・下河辺次郎太夫らを当たらせ、その下に名主らを在郷目付としてつけた。

 余談・震度7の元禄地震と富士山噴火

 1703年12月31日(新暦)に、マグニチュード7.9〜8.2と推定される元禄大地震が発生。三浦半島と房総半島の一部は隆起。小田原で震度7と推定され、小田原城下の被害がもっとも多く、小田原城天守閣も倒壊・炎上。熱海では約7mの津波が発生し、500戸あった住宅で残ったのが10戸程度になったと言う。地震による死者5200人(推定)。
 1707年10月28日(新暦)には、日本最大の地震と言われる宝永大地震が発生。マグニチュードは推定8.4〜8.6、死者2800〜20000人。関東から九州に津波。伊豆下田では5〜7mの津波が襲来し、912戸のうち857戸が流失。紀伊半島東岸では推定5〜10m、紀伊半島西岸でも推定4〜6m。徳島・高知沿岸でも5〜8mと、津波による被害が甚大であった。
 宝永大地震の余震が続く中、1707年12月16日朝10時頃、富士山が噴火を始める。宝永大噴火である。噴火の3〜4日前からは有感地震が頻繁に発生し、有感地震の回数は噴火前日の午後から急増した。
 江戸でも約4日間火山灰が降り、約4cm積もった模様。海老名・横浜約16cm。相模原市域は3〜16cmで、風の影響であろう、北部になるほど少なかったようだ。御殿場では100cm以上火山灰が積もり村は壊滅。(火山灰の降灰分布図
 小田原藩は地震と噴火で領内に大打撃を受け、当初藩費で救済・復興をしたものの、災害規模が大きく、農民が幕府に直訴する構えを見せたので、藩単独での復興を断念し、幕府に助けを求めた。
 その助けを聞き入れ、幕府は全国の大名から臨時課税(100石につき2両)を取り、480000両を集め復興資金にしたが、酒井川改修に約60000両、被災住民に渡ったのは8000両程度、そして残りの大半は幕府財政の建て直しに使われたと言う。
 なお、幕府は江戸城改修、河川改修などの工事を担当していた伊奈忠順を復興総奉行として小田原に派遣し、主に酒井川の改修を行った。
 しかし、もっとも被害が大きかった駿東郡足柄・御厨地方に充分な救済が行われず、飢餓に苦しむ農民が倒れていくのを見て見ぬふりができず、伊奈忠順は独断で駿府・紺屋町の幕府の米倉を開き、13000石もの米を村々の飢民へ分配した。当然許可を得ていた行為ではなかった為、伊奈忠順は罷免され切腹。その後、御殿場付近が完全に復興したのは約80年後であった。
 伊奈忠順に助けられた農民たちは、感謝の気持ちから1867年に祠を建て、その後、須走村(現在の静岡県小山町須走)に伊奈神社を建立し伊奈忠順の菩提を弔った。時は流れ、大正時代になって当時の業績は評価され、当時の日本政府より伊奈忠順は従五位下に叙せられている。
 なお、1707年の宝永大地震は関東から九州まで被害が出ていることから、東海・東南海・南海の3つの地震がほぼ同時に発生したと考えられる。その後1852年には安政東海地震(M8.4推定)が発生し、その32時間後に安政南海地震(M8.4推定)と連続して発生。約150年周期で大地震が発生している。次に起こる地震=1852年の150年後と計算すると2002年であり、明日・あさってと、いつ大地震が発生してもおかしくない。
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 阿部正喬

 阿部正喬(1672年4月28日〜1750年7月26日)は、武蔵・忍藩主で老中も勤めた阿部正武の長男。
 1699年9月28日奏者番兼寺社奉行。1704年10月29日忍藩相続。奏者番、寺社奉行辞任。
 6代将軍徳川家宣の時、1711年4月11日老中就任。老中在任中は正徳金銀鋳造の総奉行(1714年〜 )、ならびに家継と八十宮吉子内親王(霊元法皇の姫)の婚姻の総奉行(1716年)を担当している。
 享保の改革の直前1717年 9月19日老中辞任。その後30年以上は藩政に専念する。
 阿部正喬の頃から忍藩は財政難に見舞われ、1742年8月2日には江戸期を通じて最大の利根川と荒川が決壊があり、忍藩領100000石のうち60000石が収穫不可になる災害を受け、幕府より10000両を拝借している。1748年隠居し、1750年79歳で死去。
 いつ頃からかは不明だが、久世氏の後、下溝・当麻・新戸・磯部を領した

 井上正長

 井上正長(1654年〜1720年)の父は美濃国郡上藩主・井上正任(井上正利の子)で井上正長はその三男。母は本多忠義の娘。兄に井上正岑(老中)がいる。
 1693年、父・井上正任から3000石を分与されて交代寄合となり、6代将軍となる徳川家宣が甲府藩主の時代からその家老を務めた。徳川家宣が将軍後継者となると西の丸御側衆となり3000石加増、そして合計8000石にまでなる。徳川家宣が死去するとその遺命により、井上正長は更に2000石を加増されて合計10000石として、常陸・下妻藩の初代藩主になる。その後も奏者番、寺社奉行などを歴任し、1720年12月4日67歳で死去し、後を養嗣子の井上正敦が継いだ。下妻藩は井上氏の元、明治維新まで続く。
 相模原では、阿部正喬の後、下溝・新戸を一時的に領した。

 田名・大島などを幕末まで藩領とした大久保氏

 大久保氏で最初に田名・大島などを知行した大久保常春(1675年3月27日〜1728年10月11日)は大久保忠高の次男として生まれ、父隠居に伴い1699年近江の内15000石を相続。その後、1711年側衆、1713年若年寄。1716年徳川吉宗が8代将軍となると、大久保常春に命じて鷹狩が復活した。
 1725年下野烏山藩に国替え、1728年5月15日老中となり、最終的に30000石となる。老中在職中死去。以後、烏山藩は幕末まで大久保家が藩主となった。
 1728年老中になり、10000石を加増された際に、烏山藩相模国所領として鎌倉郡9ケ村、高座郡(相模原市含む)13ケ村、大住郡7ケ村、愛甲郡10ケ村の合計39ケ村を知行する。その中に、淵野辺(一部)、上溝(一部)、大島、矢部新田、小山(一部)、下溝(一部)、田名が入っており、その統括として1729年頃厚木村天王町(現在の厚木市厚木町)に厚木陣屋を置いた。
 ちなみに、明治に入り1871年の廃藩置県により旧烏山藩領は烏山県に属し、烏山藩厚木陣屋はは烏山県厚木出張役場となり、その場所こそ移ったが、現在の厚木市役所に引き継がれていったのだ。
 また、水郷田名に残る「烏山用水」は、田名・大島・下溝(一部)・小山(一部)・淵野辺(一部)を幕末まで知行した烏山藩が行った1858年からの新田開発に由来している。
 ただ、烏山藩は1836年の記録では借金34000両と、藩財政が悪化していた為か、藩政は苛政と言われており、田名村でも烏山藩に貸したお金が1873年の時点で2600両未返済とある。領主などへの直訴は御法度の時代に、田那村民が烏山藩に直訴すると言う事件も起きたので、苦しい生活を強いられていたのではないかと推測できる。
 通貨価値参考:概ね1石=1両。現在の通貨価値に直すと、江戸幕府末期で1両=50000円程度と考えられる。

 大久保教寛・大久保教平

 大久保教寛(1657年〜1737年12月17日)は、老中で小田原藩主・大久保忠朝(1632〜1712)の次男で、1706年10月15日、江戸城西の丸の若年寄に就任し11000石になり分家。松永藩(のちの荻野山中藩)初代藩主となった。1718年3月3日には更に5000石加増され合計16000石。18年間と比較的長期にわたり若年寄を務めた。
 大久保教寛は、跡目の大久保教端(1733〜1755)に13000石を継がせて、その弟・大久保教平に3000石を分知した。1730年11月27日に大久保教平に分知した所領は、妻田村・及川村(現在の厚木市)・半縄村(現在の愛川町)、座間宿村(現在の座間市)などがあり、その時、磯部の一部(43石)、当麻の一部(282石)も分知された。




 
 江戸時代の津久井については、津久井城と三増峠の戦いにて触れている。


 参考

 市民かわら版、相模原の歴史など


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