相模原歴史シリーズ(超番外編)
筑波・普門寺と沼田要害城

 はじめに

 ごめんなさい。相模原とは全く関係ない「超」番外編です。
 インターネット上での記録が失われそうですので、下記の留めておく事に致しました。
 茨城県つくば市神郡(かんごおり)にある名刹「普門寺」の記録です。
 たまに普門寺境内を散策する方も見られます。

 真言宗慈眼山三光院普門寺  新義真言宗(真言宗豊山派

 普門寺(茨城県つくば市神郡)は、阿弥陀浄土信仰として元亨年間(1321〜1324年)筑波山麓一帯で布教活動を続けていた乗海大和尚によって開創された、天台密教系の寺院であった。
 第五世・慶珍和尚(応永九年(1402年)没)は、天台の学者で当山鎮護の為山王権現を勧請し、更に常陸国の豪族(大名)小田氏(小田孝朝)を大檀越に迎えて発展の基礎となり、小田四ヶ寺(小田四箇寺)の筆頭寺院となった。

 神郡 普門寺 寺領 一萬二百貫 僧兵五百也
 平塚 大聖寺 寺領    七千貫 僧兵三百也
 岩田 法泉寺 寺領    八千貫 僧兵二百也
 加茂 南円寺 寺領    五千貫 僧兵三百也

 この時、小田氏の命により、天台宗から真言宗に改宗した様である。また、寺は小田城防衛の出城の役割も果たしていたのであろう。
 鎌倉末期頃から中央諸大寺の勢力弱化にともなって本末関係が乱れ、普門寺も法流本寺である、古義真言宗醍醐光台院との関係を弱め、常陸国内に於いて独自の本末関係を作り、最盛期には508ヶ寺の末寺を持つ10万石格式の田舎本寺となった。
 南北朝時代から室町時代、江戸時代と隆盛を極め、慶長七年(1602年) には江戸幕府より朱印地30石の寄進を受けた。しかし、十五代続いた常陸国大名・小田家が天正十八年(1590年)に滅び、その加護を失った事もあって、やや衰退の道を辿り始め、延亨二年(1745年)の本末改帳では末寺283ヶ寺に減っている。
 しかし、常陸四ヶ寺と呼ばれた他の3ヶ寺が同時代に持っていた末寺は、A寺194ヶ寺、 B寺157ヶ寺、C寺107ヶ寺であり、506ヶ寺を持つ普門寺の勢力が如何に絶大で有ったか知る事が出来る。
 小田城主(小田氏)祈願寺の筆頭寺として、その加持祈祷をしたことは勿論であるが寺社奉行の触書などは江戸4ヶ寺の一つ、東京・湯島の根生院を通じ、常陸の国へはまず普門寺に最初送られてから、常陸国の各寺へと送られる仕組みとなっていた。
 田舎本寺の立場から檀林所の役割を持ち、檀林は明治初年迄度々開かれていた。茨城県の南部に真言宗豊山派の寺院が多いのはこの普門寺の影響によるものだ
 しかし、寺院も時代の流れや時の政治の影響を免れず、 長い間には幾多の浮沈を繰り返した事だろう。明治絶対主義政府による廃仏毀釈の影響甚だしく、多くの弱小寺院は廃寺となり、大寺も衰弱を余儀なくされたものが多い。
 普門寺も明治以降荒廃したが昭和になって 第四十八世・宥賢和尚が諸堂宇の大改修を行い、第二次世界大戦後の苦難も乗り越え、10万石相当の格式を誇った昔の面影を多少なりとも蘇らせている。
 第一本尊は阿弥陀如来で、宝暦年間の什物帳によれば、我国の浄土信仰の先覚者、有名な往生要集などの著者である恵心僧都(942年〜1017年)の作像とされている。
 第二本尊は釈迦如来であり、いずれも寺宝として門外不出の秘仏で非公開。
 宝暦八年什物帳によれば数多くの寺宝があることになってるが、残念ながら現存するものは殆んどない。
 現在の本堂は寛政年間(1789〜1810)に再建された建物で、客殿は江戸時代中期・宝暦年間(1751〜1764)の再建、鐘楼が寛政年間、赤門は天明年間(1781〜1789)だ。
 黒門は建立年代不明、書院は慶応年間(1865〜1868)の建立と伝えられている。大師堂は現在地に昭和5年10月に移築された。境内面積は9000平方メートルである。
 約250年前に建てられた客殿は素晴らしい建物で、天井には、江戸時代に住職が使用していたと考えられる「籠(カゴ)」が保存されている。
 普門寺は、江戸末期に尊皇攘夷を唱えた水戸天狗党の田中愿蔵らの一隊が蜂起した陣営所でもあり、現在、普門寺の前を通る道は「筑波道」として、国土交通省により「日本の道百選」に選ばれ、散策する人々が普門寺の境内を訪れるのも珍しくない。
 室町時代の小田氏供養塔「九重層塔」は茨城県指定文化財。現在は約500世帯の檀家を擁し、つくば市周辺では最大規模のお寺である。

 残念な事に、2009年12月8日の昼過ぎ、築約200年になる「本堂」と、本堂に安置されていた本尊である「阿弥陀如来像」(門外不出の秘仏)が不審火と考えられる火災により全焼。市指定文化財の絵画「両界曼荼羅」は別棟の居宅にあって無事。けが人がいなかったのが幸いだが、約1000年前に造られた秘仏の本尊も消失したことが非常に悔やまれる出来事である。秘仏だった本尊は推定で西暦1000年頃の作品と考えられており、秘仏ではなく調査されていれば県の重文クラス以上の仏像であった可能性も充分考えられていた。


 筑波・普門寺に関係ある寺院 ※HPを開設している寺院のみ

 密蔵院(結城市)
 南円寺(かすみがうら市) 小田四寺の1つ
 法泉寺(土浦市) 小田四寺の1つ
 大聖寺(土浦市) 小田四寺の1つ
 護国寺(東京都)
 西荒井大師(東京都)
 雨引観音(桜川市)
 真言宗豊山派の総本山「長谷寺」(奈良県桜井市)

 ※他にもございましたら、メール願います。追加させて頂きます。


 沼田竜替城(茨城県つくば市沼田字竜替)

 沼田要害城は、つくば市にある筑波山(876m)の麓(ふもと)の沼田地区にある、燧ヶ池(三角池)のすぐ北側の高台がその場所だ。ただし、高台と言っても比高はわずか5mほどである。
 沼田地区は標高20m(推定)であり、そこから筑波山を眺めると、800m級の山でも結構高く見えると言う場所。筑波山からのキレイな水が注ぐ水田地帯が広がり、江戸幕府の時代には筑波山神社の社領として幕府から寄進を受けていたこともあった。
 しかし、徳川幕府の頃には当然機能はしておらず、戦国期に小田氏家臣が筑波城(筑波神社の東側)の出城(支城)として築かれた要害の一種であったものと推察される。もしかしたら、筑波城主・筑波氏の家臣や親族が守備していたのかも知れない。実際には小規模な館跡とも考えられる。

 約20m x 30mの主郭と思われる場所には現在熊野神社があり木々が繁っている。北側はすぐに筑波山の山すそとなっている。東側は約2mほど低くなっており、腰曲輪のような低地が下に続く。南側とは約5mの比高差があり、その先が燧ヶ池であり、西側には低い土塁?が10mほど残り、西下の畑とは1mほどの比高差がある。この畑の西側は低地の水田があると言う、多少だが地形的有利な場所と言え、年貢を取るにも便利な場所であり、領地経営の点でも沼田地区では一番要害に適した地であることがわかる。

 竜替(ゆうがい)と余り聞きなれない呼び方がされているが、城の西側に今でも残る地区名によるものである。「要害」が茨城弁?でなまったと考えられ、資料上では沼田要害城と呼ぶのが正しいのかも知れない。しかし、要害と言う名とはほど遠い、多少展望はよかったであろう砦である。


 余談 日本初の山岳気象観測所は筑波山に設置された

 中央気象台(現在の気象庁)が、筑波山・男体山山頂に観測所を1893年(明治26年)に設置し、冬季観測開始。
 東京の天気予報の向上の為、明治34年(1901年)山階宮菊麿王殿下によって創設され、通年観測開始。初代所長は佐藤順一氏。
 富士山測候所を作る前の段階の様々なノウハウを集め、昭和2年(1927年)佐藤順一氏は、民間資本により富士山山頂に観測所を設置した。


 参考

 郷土の寺社より転載し、加筆。修正

 相模原情報発信基地に戻る  相模原の歴史シリーズ目次に戻る

 ※2006年8月現在の研究結果となっています。随時、修正・加筆しています。このページへの単なるリンクは自由です
 ※このHPの文章一部などをHPやメイル、ブログへの転載・転記する場合は「相模原情報発信基地」にリンク表示つけることにより許可します。
 ※編集してファイル、電子出版または出版物として許可なく販売する場合許可願います。
 ※このHPの文書一部などを論文などの中で引用する場合には、論文など中に相模原情報発信基地のタイトルとURL(http://www.sysj.info/sagami/)を明記してください。
 ブログパーツ