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相模原歴史シリーズ(超番外編) 松姫、督姫、貞姫(小督姫)、香具姫 |
はじめに
ごめんなさい。相模原とはあまり関係ない「超」番外編です。
かつて町田市小山田を治めた小山田氏、その末柄であり、武田信玄が相模原市内を進軍した際、武田軍最強と言われた郡内小山田氏、そして、津久井に残る折花姫伝説に関連する小山田氏の総決算として、小山田有信・小山田信茂、そして武田氏滅亡を取り上げました。
それらに関連する話として「松姫」にまつわる話をご紹介します。
女性に人気がある純愛の姫「松姫」
松姫は武田信玄の娘である。
油川信守の娘(1528〜1571)が武田信玄の側室に1553年頃なったとされ、1561年9月、5女として松姫誕生。兄には猛将で知られる武田信玄5男・仁科盛信(1557〜1582)と、6男葛山信貞(?〜1582年)、そして妹の菊姫(1563〜1604)がいる。
1561年、川中島の戦いで仁科盛政が武田を裏切り上杉に寝返った為、捕らえた仁科盛政を武田信玄は処刑したが、仁科家の名跡を5男として、のち仁科盛信が仁科家(安曇仁科森城)を相続し、仁科家家臣並びに領民を安堵させた。
1568年、武田信玄と織田信長の同盟の為、松姫(7歳)と織田信忠(11歳)と婚約が成立する。婚約決定の宴は、盛大なものだったようで、結婚に向けて新しく設けた館に松姫は入り「新舘御寮人」と呼ばれた。
武田氏関係の古文書で「御寮人」とは美人の姫君を指すことが多い為、美人だったと考えられる。
それから、織田信長は贈り物や手紙をこまめに松姫に送るよう、織田信忠に指示していた為か、政略結婚をする間柄とは言え両者は次第に愛は芽生えていたようだ。しかし、実際に生涯に渡り松姫と織田信忠が対面することはなかった。(憶測になるが織田信忠の行動に不明な点が多いことから、織田信忠が武田領内までやって来て、2人で会ったことがあると言う説もある。)
同じ1568年、葛山氏元が今川氏を見限り武田氏に内通。1569年、北条氏が今川氏救援の為出した軍により、本拠地(裾野市葛山)を北条氏に奪われる。その際、武田信玄は6男を葛山氏元の娘と結婚させ、養子に入れ、葛山信貞と名乗らせ、葛山氏元から家督を譲られた。
1572年、武田信玄が西上の軍を発して、三方が原(浜松)で徳川家康と戦いとなった。徳川と同盟関係だった織田信長は徳川家康に援軍を出した為、織田と武田は敵同士となり松姫(11歳)と織田信忠の婚約は自然に破棄された。
その後、織田信忠は監川伯耆守の娘を娶り、三法師らの子供を設けている。
武田信玄が没すると、織田信忠と婚約していたことで松姫は敵対する織田勢に親しい者と見られ、府中(甲府)の武田勝頼の元にいられず兄・仁科盛信(15歳)が松姫(12歳)を保護する。
1579年10月、妹の菊姫が武田と上杉同盟の為、上杉景勝の正室として嫁いだ。
1580年、武田勝頼の命により、仁科盛信が高遠城城主となる。
1582年正月、松姫は兄の高遠城を訪れている。
1月27日、木曽義昌謀叛の知らせが武田勝頼に入る。
2月2日、織田信長は武田総攻撃の命令を出し、信濃伊奈・木曽からは織田信忠、駿河から徳川家康、相模から北条氏政、飛騨から金森長近が侵攻。総勢25万の兵力とも言われる。
2月始め、兄・仁科盛信は従者ら十数名を松姫の護衛につけ、仁科盛信の4歳になる督姫と共に甲府へ避難の為向かわせる。
2月4日、甲府に向かう途中、新府城にいた武田勝頼の4歳になる貞姫、武田一族・小山田信茂の4歳になる香貴姫が合流し、従者らと姫4人で甲府に向かう。時に松姫22歳。
途中、甲府の入明寺で盲目の信玄二男・竜宝にもこの先について相談をした。
2月5日、松姫一行は山梨市の海島寺(旧開桃寺)に到着し,ここで1週間ほど逗留。
その後、すぐ近くの於曾(甲州市塩山)の向獄寺へ移った。
2月20日、武田勝頼は菊姫の嫁ぎ先、上杉景勝に援軍要請。(上杉は援軍を出さず)
織田勢の総大将:織田信忠は、高遠城に僧を使者として送り、城主・仁科盛信や家臣の命の保証と引換えに、城の明渡し、賠償などを求めたが、使者の僧は耳鼻をそがれ帰される。
2月28日、高遠城は織田信忠の攻撃を受け陥落。仁科盛信ら討死(享年26)。
3月6日、織田信忠が甲府に入る。(3月7日とも)。
3月11日、武田勝頼は自刃し武田氏滅亡。
武田勝頼死去のあと、葛山信貞や小山田信茂は甲府善光寺で織田勢に拝謁を申し出たが殺害され、松姫の兄弟、そして、督姫、貞姫(小督姫)、香貴姫らの父もこの世からいなくなる。
3月23日、松姫らは落武者狩りが行われると聞き、一旦山中に籠もるものの移動開始したとされ、塩山・向獄寺を発つ。
3月27日、陣馬街道の和田峠(案下峠)を下り、八王子・上恩方にある金照庵に到着。
松姫らは、恐らくは、北条氏を頼ろうとしたのだろう。東へ東へと逃れて行った。最終的に武田勝頼に嫁いでいた北条夫人の親元=北条氏を頼ろうと東へと逃れた。
6月2日の本能寺の変。織田信忠(25歳)も京都・二条城で自刃。
本能寺の変より前のこと、八王子に松姫が生存していると知った織田信忠は、改めて妻として迎えたいと使者を出したと言う。松姫が織田信忠の元へと向かう途中で、この本能寺の変を聞いたという説がある。
また別の説では、北条氏照の配慮で上野原で織田信忠からの迎えの「輿」を待つ事となったが、約束の上野原で待つ松姫には、織田信忠からの迎えの「輿」はとうとう来ず、織田信長が本能寺にて死に、同じく織田信忠は妙覚寺で死すと言う知らせだけが届いたとも言う。
金照庵での仮住まいであったが、同1582年秋には、心源院に入り出家し、信松尼となり8年間過ごした。
川原宿に今もある心源院は八王子城主・北条氏照の祈願寺であり、八王子城陥落の際にも僧侶が豊臣勢に抵抗しており、八王子城の砦の役目も果たしていたようだ。
1590年、豊臣秀吉により小田原北条氏が滅亡した頃の話では、八王子・御所水(八王子市台町)のあばら家に移り住み、尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、蚕を育て織物を作り得た収入で、3人の姫を養育する日々だったと言う。
生涯を終えるまで、松姫は生涯、婚約者織田信忠への愛を貫き通し、心優しい松姫は八王子の地元民からも大変慕われたと言う。
徳川家康は天下統一を果たした後、武田信玄の娘・松姫が恩方にいることを知り、元武田家臣(大蔵長安→土屋長安)で当時八王子の代官頭だった大久保長安(おおくぼながやす)に支援を指示。大久保長安は自分の家の近くに信松尼のために草庵を作るなどし、旧武田家臣が多かった貧しい八王子千人同心の心の支えにもなったと言う。
1616年4月16日、松姫は56年の生涯を閉じた。翌4月17日は徳川家康も逝去。
JR八王子駅では「松姫御膳」と言う駅弁が販売され、現在でも松姫を偲んでいる。
上杉家に嫁いだ菊姫は、甲州夫人・甲斐御前と呼ばれ、諸費倹約を奨励し、賢夫人と皆に親しまれたと言うが、上杉氏は武田が織田勢に攻められた時、武田を支援するのに力添えできず、役割を果たせなかった。武田滅亡の折、武田信玄の6男で海野城主だった武田信清は菊姫の縁を頼り上杉氏家臣となり、武田信清の子孫は現在も続く。
1595年、菊姫は春日山城から京都伏見の上杉別邸に入り、豊臣政権下で人質となり、以後を京で過ごし、甲斐や越後に帰ることなく1604年47歳で亡くなった。
現在墓所は、八王子市の信松院にあり、参拝する女性も見られる。(写真は信松院の松姫墓所。写真はクリックすると拡大します)
戦国時代の信濃・甲斐にある諸城の地図(オリジナル)
武田勝頼の娘・貞姫のその後
僅か4歳前後だった貞姫は松姫一行が八王子に逃れた同年1582年に駿河・田中に居住した徳川家臣・高力正長が預ったと言う記録があり、八王子に留まるのもつかの間、徳川家康の命により高力家が養育したようだ。
江戸幕府ができる1603年前後(25歳前後の時)に、徳川家康の配慮により宮原義久の正室として嫁ぎ、1606年、高家宮原家の跡継ぎになる宮原晴克を生んでいる。
宮原家と言えば、清和源氏・足利尊氏の子孫(足利尊氏の4男・鎌倉公方・足利基氏の血筋)と言う名家で、1代前に足利性から宮原に性を変えて、宮原義久は徳川秀忠の側臣として、徳川家に仕えていた。
宮原義久は1602年、兄・宮原義照の死去により、高家宮原の家督を相続。当主及び嫡子のみが宮原姓を称し、庶子は穴山姓を称することを徳川家康より命じられたとされる。
大坂の陣には将軍・徳川秀忠に従い出陣。二条城の守備などを担当した。1630年12月5日死去、54歳。
貞姫は夫の死から29年後の1659年6月3日81歳で亡くなった。
貞姫が生んだ宮原晴克以後も高家宮原家は明治まで続いている。
仁科盛信の娘・督姫(小督姫)のその後
督姫は金照庵→心源院→台町の庵(信松院)と松姫と共に行動し、松姫が信松院を与えられた頃、僧坊(元横山町・大義寺西隣り)を寄贈されたが、その後、留守居の侍女をおき、法蓮寺(八王子市川口町)で出家し、生弌尼となった。
督姫は体が弱かったようで、嫁がず出家して父母の冥福を祈ったが、病の療養のため僧坊に戻り1608年7月29日29歳で亡くなった。
その後、僧坊は荒れ果ててしまい、現在は、極楽寺に改葬して供養されている。
小山田信茂の娘・香具姫(香貴姫)のその後
香具姫(香貴姫)は、最後に武田勝頼を裏切った小山田信茂の娘であった。松姫はそんなことなど関係なく、我が子のように一緒に甲斐から逃亡し、養育したと言う。しかし、4歳前後だった香具姫も、恐らくは貞姫と同じように、徳川家臣の家で養育されたのだと考えられる。
その後、香具姫は貞姫同様、徳川家康の配慮によって、陸奥・磐城平7万国の藩主(福島県いわき市平)内藤忠興(1592〜1674)の側室となった。
内藤忠興には正室・酒井御寮人(酒井家次の娘)がいたが男子が誕生しておらず、香具姫は2男1女を生み、跡継・内藤頼長(内藤義泰)を生んだのは香具姫となった。
長男・内藤頼長は1619年生まれ。香具姫41歳の時で、父の内藤忠興は28歳と13歳も年下の主人だった。
内藤忠興は藩政に力を注ぎ、新田開発や検地などの農業政策、厳格な税徴収などを行ない、平藩の石高を実質的に2万石も増加させるなど、政治面でも活躍した。
香具姫は徳川家綱の時代まで長生きし、1673年8月6日、95歳で亡くなる。内藤氏の側室になってからは幸せな人生を送れた事であったろうか?
なお、香具姫が生んだ内藤忠興の娘、要するに孫娘が、武田信玄から続く武田宗家の武田信正に嫁ぎ、1672年には武田信興を生み、武田の血脈を現代に残している。
小山田信茂については小山田信茂と武田氏滅亡天目山の戦いにて詳しくご案内している。
また、小山田氏一族の娘として「折花姫伝説」も別章でご紹介している。
松姫峠
大月市と小菅村を結ぶ国道139号に「松姫峠」があるが、下記の理由から歴史研究上では松姫はこの峠を越えていないとされ、松姫峠を通ったという説明は間違えである。
1.車で踏破するにも大月市側は大変険しい峠道である。
2.松姫峠の名は明治以降に新しく開通した新道路の峠名として、山梨県知事様が松姫伝説に思いを寄せ命名したとされ、昔から松姫峠と呼ばれてはいない。
3.八王子恩方へ逃げるコースよりだいぶ逸脱している。
実際の逃避ルートは全く不明である。当方宛に届いた自説などもふまえて下記に甲府から八王子への予想経路を紹介したい。
<メイル連絡頂いた、金子世也氏説 (原文のまま掲載)>
私は奥多摩山行をしてきていますので、いろいろ実地に歩いた感じでは向嶽寺→大菩薩峠→鶴峠→三頭山→鞘口峠→浅間尾根→檜原城下→市道山→イッポチ→関場(金照庵)→心源寺→現信松院という長い苦しい落人ルートの可能性が大きいと考えています。
理由は、小さな子供連れでお付の武士侍女もいたろう多人数での落人で、ひっそりと隠れる様に逃げたわけなので、街道を通るはずがないこと、以上のコースは難所はなく大体楽なコースであること(女子供も歩ける)、ひっそりと伝わってきた武田遺臣や松姫の伝承物や話が遺っていること。です。
<小生の説>
松姫一行は2月15日頃には、既に甲府盆地の東にある甲州市塩山の向獄寺まで来ている。
2月28日、高遠城が落城。3月6日には織田信忠が甲府に入り、3月11日、武田勝頼・北条夫人が落命し、松姫が相談していた竜芳も亡き者に。3月15日には小山田信茂も切腹。
このような状況の中、松姫一行はさらに塩山にて身を隠したとされ、いよいよ危ないと、3月23日に塩山を発ち、3月27日に八王子・上恩方に到着したとされている。
織田・徳川勢の大軍が甲府や郡内に入っており、武田勝頼も既に命を落としている状況であるにも関わらず、塩山に隠れ住んだとは小生はとても思えないのである。松姫一行には、当時3歳と言える幼い姫が3人も同行していた事も考慮すると、回りは織田勢だらけの中、松姫一行が捜索網を潜り抜けて、3月23日に塩山を出発し、3月27日に恩方に入った説は、日にちが間違っているとしか思えない。
小生が思うには3月23日→2月23日に塩山出発。3月27日→2月27日に恩方に入ったと考えたいが、塩山から八王子は約100km。時速3kmで1日約8時間歩けば4日間で辿り着く計算だが、道の険しい山間部をたった4日間で幼子を連れて移動するのは無理があるようにも思える。
これらを考慮すると、小生はまだ織田勢が甲府に侵攻する前に、塩山を発って八王子を目指し、できる限り無難なコースを取り移動したと推測する。3歳児や女子など総勢約15名と言える団体でも無難に移動できるコースとは当然甲州街道である。
小山田信茂が裏切る前に笹子峠を通過し、大月→上野原、そして、和田峠または明王峠を経て八王子恩方に隠れ住んだと小生は考える。当時、上野原辺りまでは武田勢の支配下であったし、織田勢は東から武田領に進入していない。西から攻めてきた織田勢に対して、武田を見限った武田家臣の多くも東の八王子方面を目指しており、早期の移動でれば追っ手の心配なく関東方面を目指せる。その為、移動に無難な甲州街道を通り、陣場街道に入れる。
小田原北条氏は織田信長の武田攻めの際、事実上織田氏と同盟しており、織田勢として相模から武田領に侵攻しているが、織田勢から作戦日時などを一切知れされなかったようで、共同戦線が取れず、目だった軍事行動はない。(北条氏は織田氏の対応に不満を述べている。)
武田勝頼自害のあと、隠れ住むのに難渋したと考えられるが、松姫らはなんとか無事に切り抜けた。その理由としては、北条氏は武田攻めの際には織田勢ではあったが、実際には織田勢を信用できないと考えていた、北条と武田は親戚と言う事もあり、八王子城主・北条氏照などの擁護がある程度はあったのではないかと考えられる。そうでないと八王子に留まるのは困難である。
松姫の八王子への逃走経路に関して、自説などございましたら、お知らせ下さい。差し支えなければ、掲載させて頂きたく存じます。
武田勝頼討死後も武田家は滅びず
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