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相模原歴史シリーズ 当麻山無量光寺と 当麻城・磯部城・堀の内 |
はじめに
このページでは相模原市当麻(たいま)を中心とした歴史についてご紹介したい。
当麻城
相模原市の当麻(たいま)は太古の昔から人々の生活跡があり、平安時代初期(800年頃)にはすでに当麻に集落があった。平安時代935年頃に編集された、日本で2番目に古い辞典「和名類聚抄(和名抄)」には「塩田」の地名が明記されており、古くから人々の往来があったことが伺える。
その塩田の隣の地にある当麻城は相模川に侵食された約30mの絶壁にある原当麻の浅間神社にあったとされる。
当麻と言う地名は、アイヌ語では「湖・沼」が「入る・ある」と言った意味で、北海道や会津にも見られる地名だが、奈良に見られる当麻は、古代のタギマ(当岐麻)がタイマと言う様に変化したとされている。果たして、相模原の当麻はどのような経緯からついた地名なのだろうか詳細は不明である。
当麻城があったとされる場所には、空堀や郭と思われる削平地があるもの、当麻城の本丸があった場所は崩されており、明確な遺構はわからない。
鎌倉時代初期、源頼朝の異母弟・範頼の家臣 当麻太郎 が治めていたという。
源頼朝は源義経を殺すようにと、源範頼に命じたが、それを断ったことにより、源範頼の立場は悪くなる。
追い討ちを掛けたのは1193年5月28日の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは源頼朝が殺されたと誤って伝えられ、悲しむ北条政子を慰さめて「あとには範頼あるかぎりご安心下さい」と発言した事から、将軍の座を狙っているのではとますます疑念を持たれる。
それらの無実を無実を晴らそうと腹心の部下で武勇も高かった当麻太郎(當麻の太郎)が1193年8月10日、源頼朝の寝所に忍んだが拘束される。(別の見方をすれば、兄・源頼朝を暗殺しよう忍び込んだとも考えら、当麻太郎は源範頼の命で忍び込んだとうその白状をさせれた模様。恐らくは北条政子らの策略である。)
1193年8月17日、源範頼は伊豆・修善寺に幽閉され、ほどなく幕府軍に攻められて討死したと言われているが、自害した、別の地に逃げたと言う諸説がある。
当麻太郎は、当時源頼朝の娘大姫が病だった為、死罪を免れ、同じ8月17日、日向国島津庄の地頭として赴任する島津忠久に同行し九州に下り喜界島へ流刑となった。源頼朝の死後、島津氏の家臣に向い入れられたが、のちに自決。子孫は日向の新納院(にいろいん)に住み、新納を姓とし島津家臣として長らく仕え、武勇も高かったと言う。
それから360年のち、小田原北条氏の1559年頃に当麻三人衆と呼ばれた武士の名がある。
また、当麻豊後守の名が新編相模風土記に出てくるが、北条氏家臣名簿などにその名は見られず、また地元にも当麻豊後守の存在があった伝承もなく、良くわからない。
戦国時代には津久井城とともに武田や上杉勢の南進に備えて、烽火台が築かれたとの伝承もある。
小田原城が豊臣軍に攻められた際には、当麻豊後守らが当麻城に立て籠もったと言う。
戦国時代に相模国を平定した伊勢新九郎(北条早雲)は当麻に関所を設置。無量光寺も当麻にあり、賑わっていたようだ。
一遍上人(1239年〜1289年)
原当麻と無量光寺の話に入る前に、当地にゆかりある一遍上人についてもおさらいをしておく。
一遍上人は鎌倉時代中期の僧で時宗の開祖。一遍は房号で、法諱は智真。遊行上人、捨聖(すてひじり)、円照大師とも呼ばれる。俗名は河野時氏とも河野通秀とも言い、伊予・河野通広の子であると言われる。幼名は松寿丸。1940年に国家より証誠大師号を贈られる。
有力氏族であった河野氏も、鎌倉時代承久の乱で京方について、一遍が生まれた頃には没落していた。
10才のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺に出家。 13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子より10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。
25歳の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で32歳で再び出家。信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋、四天王寺、高野山など各地を転々としながら修行に励みむと、真言宗・弘法大師の道を慕うようになり、熊野本宮で熊野権現からお告げを受け「一遍」と称し、時宗開宗としている。
さらに、各地を遊行するうち、信濃国で念仏踊りを始めた。 死地を求めてその播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、51歳で摂津兵庫津の観音堂(のちの真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる。
生誕地とされる宝厳寺(道後温泉)や、当麻無量光寺(相模原市)、東山長楽寺(京都市東山区)に木造立像がある。廟所は真光寺で、巨大な五輪塔がある。(阪神大震災により倒壊し、中から骨灰が現れたことで、実際の埋納が確認された)。
一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆を賦算(ふさん)と踊念仏(おどりねんぶつ)で極楽浄土へと導いた。その教理は絶対他力による「十一不二」に代表される。浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は形而上的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称えることに価値を置いた。
時宗は仏教を庶民のものとし、苦しい生活をする一般人に受け入れられた。
門前町から市場・宿場町に発展した原当麻
当麻の地は、厚木方面と八王子方面を結ぶ大山街道の渡船場でもあり、相模川の水運を利用した物資の荷揚げ、そして大山街道と交通の要所でもあった、当麻に1303年無量光寺ができると修行僧や参拝者などが関東一円から集まるようになり、当麻山のふもとには自然と市場ができた。多くの商人や産物を集め賑わったようだ。
ただ、その当時は無量光寺のすぐそば(門前)が栄え、付近に「市場」「上宿」「下宿」といった地名が現在でも残っている。
また、鍛治屋坂と言う坂も市場付近にあり、当麻山お抱えの鍛冶屋がいたと言う。
相模川の対岸には依知と呼ばれる地名がある。依知(越智)は四国の豪族河野水軍の一族の姓であると考えられ、河野一族で一遍上人にゆかりある者が、伊予からやってきてこの付近に在住したと考えられる。当麻の地ものちの世に管理者的な立場になる関山氏や落合氏などは、この伊予からやってきた子孫と考えられている。
昭和橋から当麻に続く道沿いに「宿」と言う地名が残るが、その宿の北側に関山氏の屋敷があったようだ。松本氏や中島氏は浅間神社の崖下にいた。
1512年8月に、伊勢宗瑞(北条早雲)は岡崎城(平塚市岡崎)から三浦道寸(三浦義同)を追い、さらに相模川沿いを登り、扇谷上杉氏の諸城を攻略する際に、伊勢宗瑞が当麻山に滞陣したこともあったようであり、その時に足柄下郡山角の山角定澄の配下に組された関山氏などは北条氏の家臣になったようだ。
当麻の問屋でもあり、当麻の地で権力を持っていた関山氏が、1518年頃、伊勢宗瑞(北条早雲)の命により、現在の原当麻駅西側に新しい宿場町(新宿)を建設し、市や宿を移動した模様である。これが当麻宿となり、戦国時代宿場町として栄え、当麻宿の市は毎月、一と六の日の六回開かれ繁栄した。
武田信玄が小田原城攻めした際も、上溝→下溝と行軍する際に原当麻を通過している。
また、小田原北条氏は北の玄関口として相模川と八王子街道の通行を監視し、伝馬制も整備した模様である。1524年頃には相模川に面した渡河地点に当麻関所も設けられ、それらの管理に関山氏があたった。
1559年には小田原北条氏の家臣に「当麻三人衆」の記述が見え「諸足軽衆」として相模中郡秦野の大藤政信の129貫文に続いて、「125貫文
東郡当麻 当麻三人衆」とある。これを関山隼人、当麻豊後守、落合三河守の3人とする見方があり、小田原北条氏の時代、当麻宿を代表する3人が足軽衆に加わっていたと考えられる。
関山隼人の祖は一遍上人と同じく伊予(愛媛県)の河野氏とされる。
河野氏は鎌倉末期に伊予から河野松寿丸が一遍上人ゆかりの当麻の地を尋ね、無量光寺に弟子入りし、出家して土着したという。その後子孫は代々当麻の商業を担い、関山氏と呼ばれたようである。
ちなみに伊予の河野氏は戦国時代末期まで続き、伊予国(湯築城)大名にまでなっている。
江戸時代に入ると関所は廃止。東海道や甲州街道からも離れていたこの地の重要度は低下し、徳川幕府の経済統制もあり、当麻宿の市場はしだいに衰退していく。
当麻山無量光寺 〜時宗 旧当麻派旧大本山
金光院当麻山無量光寺は、時宗ですが、古くは浄土門当麻派の大本山として栄え「当麻根本道場」と呼ばれていた。
一遍上人が諸国遊行の途中、1261年この地に妙見菩薩の祠を見つけ、これを「金光院」と名づけて修行したのが始まりと言われている。一遍上人は当時23歳。
当麻の水道用水は無量光寺の北の湧水を利用している。日照りが続き田畑が枯れた時、一遍上人が3日間祈ったところ、大量の清水が湧き出したという。
一遍上人の信仰の深さに心を打たれ、弟子になっていた真教上人が遊行ののち、この当麻に1303年一宇を建立し、無量光仏の由来をもって「無量光寺」と名づけ、時宗の根本道場として定住した。
一遍上人の分骨を開山堂前に埋骨したも言う。
神奈川県には、時宗の根本道場が1325年藤沢にもでき、その藤沢市の藤澤山無量光院清浄光寺(遊行寺)との本山争いをした。ちなみに、藤沢の遊行寺は小栗判官物語の古文書が残る由緒ある地でもあり、藤沢の街はこの寺の門前町として作られ発達したのである。
無量光寺は数度の火災などによって寺勢の衰えた時期もあったが、室町時代中期には清浄光寺につぐ準本山として高い寺格を有し、大きな伽藍と道場を構え、最盛期には山内に20以上の子院があり、尼寮も4院あって、多くの行僧尼を抱えていたと言う。それで、門前町も栄えたと言うのがわかる。
戦国時代になると小田原北条氏の特別な庇護を受け、益々当麻道場として多くの道者や参詣者を集めた。この頃までには無量光寺は小規模ながらも僧兵(又は門前町の兵か?)を有していたようで、1512年には軍勢の乱暴狼藉を禁止すると言う伊勢宗瑞(北条早雲)からの命令書も見られる。
徳川家康が江戸城に入った翌1591年に、家臣・内藤清成の申し出もあり、徳川家康より30石の御朱印(年貢免除)を賜るなど、守護不入の聖地として保護された。30石は多いほうですが、信仰が特別厚かったとは言えない。
(ちなみに、津久井根小屋の功雲寺は朱印地50石。高尾山薬王院75石、浅草・浅草寺500石、筑波山神社1500石、芝・増上寺10000石以上)
無量光寺は江戸時代、時宗じたいの人気衰えもあり、諸堂はすべて焼失し仏閣を失う。なんとか再建されていた本堂も明治26年(1893年)に全焼し、現在は仮本堂のままとなっている。本尊は焼失を免れ、現在も安置されている。また朱塗りの山門と鐘楼も焼失を免れ、現在のものは古い時代の建築だ。
境内そのものが市指定史跡。かながわの景勝50選の一つにも選ばれている。
宝物などは、宗祖一遍上人御影ノ像、真教上人像、智得上人像、笈退の遺跡、お花ケ谷戸の遺跡など。
※境内は亀の形をし、寺の縁起の由来により亀形峯と呼ばれている。また、さかさナギの木と呼ばれる一遍上人ゆかりの大木がある。
徳川家康とも縁がある無量光寺
南北朝時代の1368年、新田義宗が南朝につき越後で挙兵した際、群馬・太田を所領していた徳川家康の先祖にあたる世良田有親(得川有親、世良田左京亮有親、長阿弥)、松平親氏(世良田親氏、松平太郎左衛門尉親氏、徳阿弥)の親子も新田義宗につき参戦した。
しかし上野沼田荘で敗北。逃れて無量光寺に入山した。
その時の住持八世良光上人に帰依、薙髪授戒、有親を長阿彌、親氏を徳阿彌と称し「髪」を境内に埋め、その時所持していた本尊宇賀神弁財天を山内に安置し、2人も当山において出家。後年に長蔵庵にて死去。
両名をこの地に葬り五輪之塔を建て主従の霊を供養した伝えられており、後に村人がこの塚を「お髪塚」と呼んだ。
ただし、この説には異説があり、世良田有親と松平親氏(1298年?〜1361年?)は、遊行寺で出家した説もある。
世良田有親(長阿弥)は1385年宗良親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した説もあり、無量光寺じたいに入山していないかったとする説もある。また、世良田親氏(徳阿弥)と一緒に放浪し三河に行った説もあり、いわゆる実在したかすらわからない「伝説の人物」となってしまっている。
徳川家の系図では、世良田親季の子が世良田親氏(徳阿弥)であり、当麻に留まらず諸国を流浪して、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、同地の領主である松平信重(松平太郎左衛門在原信重)の客人となる。そして、松平信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子とした。そして、徳阿弥は還俗して松平親氏(松平太郎左衛門在原親氏)と名乗ったと言う。
もっとも、松平氏の養子にならなければ、松平姓にはならなかった訳で、この説は徳川氏が主張するところだ。松平親氏の墓は愛知県豊田市松平町の高月院にあるが、没年が諸説あって1394〜1428年の間とかなり幅がある。
徳川家康は初め藤原氏の子孫と称していたが、三河国を平定すると、新田源氏の子孫と主張した。理由は簡単で、源氏系統でないと征夷大将軍にはなれないからだ。徳川家の系図には、世良田有親を得川と称している系図もあり、徳川家康が源氏に繋がるよう系図を操作したとも言われており、数点の異なる系図があり定かではない。
徳川家康は系図を詐称する際に世良田親季が討死している為、その子孫がいたことにして、世良田有親、世良田親氏父子を「創作」したと考えられ、実際2人は実在しなかったと言う見方が一般的である。都合よく、その源氏の血が流れる2人が時宗の僧として三河に移り、松平氏を興したことにしたのだ。
しかし、このご縁で当麻山無量光寺は江戸時代、徳川家康より30石の御朱印(年貢免除)を賜わるのだが、実際本当に徳川家とゆかりある寺院であれば、30石では少なく、このことからも世良田有親、世良田親氏父子については定かでないことを物語っている。
相模川を利用した水運

相模川は、相模ダムと城山ダムが完成する以前は水量が多く、また現在のように堰や堰堤がなかったので、江戸時代までは多少大きな船でも航行できた。
鉄道開通前は上野原から平塚までの間、そして鎌倉方面、江戸方面を結ぶ交通路として大いに利用された模様だ。
上流域からは年貢米、竹、木炭など、下流域からは干鰯、塩、日用雑貨などが主に運ばれた。
下りに関しては、船頭2〜3人の高瀬舟や平田舟で、荒川地区(現在の津久井湖底)から河口の須賀(平塚市)まで4時間ほどで着いたと言う。
上りは南風が強い時は「帆」を張るだけで半日あれば小倉辺りまでこれた。しかし風がある日は少なく、大半は舟に縄をつけ船頭が河原を歩きながら上流を目指し、小倉辺りまで2〜3日はかかったと言う。
また、船での運搬だけでなく、江戸に材木を送る為「筏流し」も盛んに行われていたようだ。
上流から一本ずつ流され、途中の渡し場で筏に組み、所々で筏士が交替しながら輸送したと言う。舟運や筏流しで栄えた河港は吉野、勝瀬(現在の相模湖底)、沼本、荒川(現在の津久井湖底)、小倉、田名滝、厚木、須賀などの地名がある。
江戸幕府は江戸防衛上、相模川に橋をかけなかった。その為渡し舟が各地にあった。
相模川の渡し場は神奈川県内だけでも約30カ所もあったようだ。最後まで残っていた渡し舟は、相模原市田名滝と相模原市城山町葉山島を結ぶもので、昭和47年まで運航されていた。
両岸にロープを張り、それを手繰りながら渡る針金渡しだ。
対岸の山仕事だとか、買い物などに使われ、舟が向こう岸にいても呼べばすぐ来てくれましたと言う。その他には普通に高瀬舟や平田舟を漕ぐものや、絶壁が多い山梨県内では籠渡しなどもあったようだ。
磯部城
記録では長尾景春の手の者が城主であると記載されているだけで、誰が城主だったのかわかっていない。
1476年、上杉顕定の家臣・長尾景春が主君に謀反を起こした際、相模の武士たちは長尾氏に味方して戦ったとされている。
1477年、長尾景春勢であった金子掃部助の拠点として小沢城があったが、その小沢城の支城として急遽磯部城が築城されたと考えられ、翌1478年頃に太田道灌を大将とする関東管領の上杉勢が奥三保を攻めた際に、落城したとされたと伝えられている。
磯部城は2重堀があったとされ、その中心は御嶽神社もしくは能徳寺の付近と伝えられているが、既に江戸時代には遺構は消滅していたようだ。上磯辺に現存する幅約11m、長さ約60mの土塁は附属施設だと考えられているが、明確に残っていないことからも築城途中(未完成)で落城したと言う説もある。
何しろ、新編相模風土記でも「磯部城跡詳ならず」と、昔でも良くわかっておらず、今でもわからないのは当たり前の話である。
小沢城と金子氏については、小沢古城・小沢城・田代城・細野城のコーナーでご紹介している。
ちなみに主君を裏切り謀反を起こした長尾氏は、その後、戦国時代、越後の覇者となった上杉謙信(長尾景虎)の先祖一族にあたる。
下溝城(下溝堀之内)
鳩川と道保川に挟まれた字下原地区(下原交差点の東一帯)が城跡。井上農園が大手と伝わる。大手から中に入って行くと、細い道は何度もクネクネと折れ曲がり、進んでもなかなか中心部にたどり着けない。
このような防御を考えた集落は全国に多数存在し豪族屋敷(堀の内)と呼ばれており、領主の住んだ場所とされる。
地図には記載されていないが、地元では「堀の内」と呼ばれ、周囲を泥田が囲み、堀で囲まれた集落だった。防御目的もあったことから、下溝城と呼ぶ方もいる。道保川の蛇行をうまく利用したもので、幅約30m、深さ約5〜7mあったらしいが、現在はほとんど埋められて住宅地になっている。
いつ頃からあったかは不明だが、戦国時代1548年頃には、小田原北条一族の油井源三の所領の一部であった。油井源三はのち滝山城・大石氏の養子となって八王子城主になった北条氏照である。滝山城に入ってからも、油井領として所領していたようで、北条氏照の娘・貞心が武蔵・葛西郷渋江に39貫文を知行した北条氏家臣・山中大炊助(栃木県佐野の城代とも)と婚姻した際に「化粧田」としてこの下溝の堀の内を与えたと言う記録がある。
貞心の夫は早死し、貞心尼となり、一人娘も入水したと伝わり、2人を弔う為、貞心尼は堀の内で一生を終えたと伝えら、貞心尼に随従してこの地に来た井上図書は堀の内に、福田兵庫助忠光は新屋敷にそれぞれ居住して村民となり、子孫は今日に至り、近年まで堀の内の住民の大半は「井上」という苗字であった。
貞心尼は荒れていた下溝天応院を再興した。貞心尼の死後、堀の内東奥の祠(ほこら)に山中貞心神社として奉られた。
参考文献 相模原の史跡
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