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相模原歴史シリーズ(番外編) 小山田信茂と武田氏滅亡天目山の戦い |
はじめに
相模原と少しだけ関係ある番外編です。
かつて町田市小山田を治めた小山田氏、その末柄であり、津久井城を攻めた武田信虎に属していた小山田氏、武田信玄が相模原市内を進軍した際、武田軍最強と言われた郡内小山田氏、そして、相模原市津久井に残る折花姫伝説に関連する小山田氏の総決算として、小山田有信・小山田信茂(小山田弥三郎)、そして武田氏滅亡を取り上げました。
郡内小山田氏・小山田信有
甲斐の郡内を治めた小山田氏は有力国人で、武田氏に属さなければ大名クラスで称されておかしくない氏族である。
独立性が強い証拠に、武田晴信(のちの武田信玄)の代であっても甲州法度(1546年)が甲斐領内で施行されたときは、郡内地方では適応させていない。
小山田氏は諸流ある為、現在の都留市・大月市で活躍した小山田氏は郡内小山田氏と称される。
小山田氏には良くわかっていない部分も多く諸説ある。小山田氏15代の小山田信有(1488年〜1541年)と、その子も信有(1519年〜1552年、16代目)と、3代続けて「信有」と称されている。
その後、小山田信茂が家督を継ぐ前の兄も信有と称しており、小山田信茂自身も一時期信有と名乗った可能性があるので、考えようによっては4代続けて信有を名乗ったことになる。
恐らくは小山田氏の権威を維持する為に当主が亡くなっても同じ名前を名乗ったり、間者や敵を混乱させる為のものだと推測するが、歴史を認識する上で、我々は混乱しないよう注意が必要だ。
15代の小山田信有(小山田越中守)の父(又は兄)、小山田信隆の時代には、武田信虎と油川信恵との武田家・家督争いがあった。小山田信隆の叔母が油川信恵の母であったことから、小山田氏は武田と油川の抗争では油川家に協力している。
1508年10月、僅か15歳の武田信直(のちの武田信虎)が油川信恵・岩手縄美兄弟を奇襲・襲撃し討ち取ったあと、小山田信隆は郡内から甲府へ侵攻し武田信直(のちの武田信虎)と対峙した。そして同年1508年12月、「油川信恵の戦死で慌てた出陣」と言われる棒ヶ峰合戦(笛吹市境川町)となる。小山田信隆は当初、武田信直軍相手に有利に戦いを進めたが、深夜に急襲されて小山田信隆が討死して大敗。以後、小山田信有(15代・越中守)が家督をついだとされている。
この時、小山田氏は壊滅的な打撃を受けており、郡内は家臣に預けて伊豆・韮山の北条早雲の元に国外逃亡した。
1509年秋、武田信直16歳は御坂口から河口湖へ侵入し郡内へ侵攻。伊豆の小山田有信は北条の援軍を得ることもできず、郡内勢は当主不在のまま抵抗するが、小山田氏の郡内支配要所である検断所を12月武田信直(武田信虎)に奪われている。
郡内勢は次第に戦意を喪失し、翌1510年4月に武田信直の勝利という形で小山田氏は和睦。和睦条件は、小山田氏にとっては大変寛大で、小山田信有(15代)を郡内の新領主とし旧領復活させ、さらに武田信直の妹(姉?)を小山田信有(15代)の正室に出す形で、武田と小山田は親戚関係となった。
これにより、助けてくれない北条早雲を見限り、小山田氏は武田氏に忠節を誓う。以後、武田氏の信頼厚く、河内領の武田一門衆・穴山氏と同様、領域支配権を認められた独立性の強い有力一門衆となっていった。
なお、武田信直は岩殿城麓・駒橋(大月)に屋敷を構えて、弟の勝沼信友を「目付」として派遣している。
1520年、小山田信有は武田信直の弟・勝沼信友と協力し岩殿城の円通寺を再興し、相模川となる桂川の渓谷を甲州街道が通過する地に「猿橋」をかけるなど領内の整備を行う。猿橋は日本三奇橋とされ、中央本線の駅名にもなっており、現在ではちょっとした観光地となっている。
1524年頃から1530年頃には、相模・北条氏や関東管領・上杉氏と武田は国境付近で戦が絶えず、1524年には武田信虎が関東管領・上杉憲房と猿橋で合戦した他、現在の相模原市にある津久井城攻めなども武田勢として小山田氏も出陣していたようだ。甲斐東部の防御の要となる、岩殿山城(大月)も1527年頃に完成している。
1529年、武田信虎は甲斐統一の為、小山田氏を完全な支配下に置こうと考え、小山田信有に対して郡内領への棟別銭賦課(臨時税)を申し渡し、甲府から郡内へと通じる道を閉鎖し経済封鎖した。この圧力によって小山田氏は棟別銭賦課を受け入れたが、武田家の財政立て直しだけでなく、武田信虎の権力が郡内にも及ぶことを誇示し、武田信虎は小山田氏を事実上制圧し家臣化させたのである。
1530年1月7日、相模の北条氏綱の侵攻があり、猿橋付近で小山田有信は対陣。4月23日、小山田氏は単独で相模・北条氏綱と矢坪坂(談合坂付近)で戦うが敗戦。その際、北条勢は更に侵攻しどうも本拠地である郡内の中津森館も焼かれたようだ。また、武田から来ていた妻が死去したこともあり、1532年には新しく完成した谷村城へ本拠地を移し、詰城として勝山城を築き防御力を強化し、都留の城下町を整備した。
また、1533年には甲府の小山田氏館が焼失した為、70坪の新しい館を造った(武田氏から与えられたとも)。
1535年、駿河・今川の大規模な武田攻めの際、北条勢が今川に加担し、8月22日、山中(山中湖)にて衝突。小山田氏一族と考えられる小山田弾正が討死し、吉田(富士吉田)も焼かれたとある。
15代の小山田信有(越中守)は1541年3月9日、54歳で死去したと言う説が有力だ。
1541年6月14日、武田信虎を武田晴信(のちの武田信玄)が追放する。小山田氏もその際、武田晴信に協力したと考えられている。
小山田信有(越中守)には長男・小山田虎親(小山田弥七郎虎親)がいたが、1541年に33歳という若さで亡くしていた。小山田虎親には小山田修理亮がいたとされるが、1542年に24歳で家督を継いだのは小山田信有(越中守)の2男とされる小山田信有(小山田出羽守)。(家督を継いだのは1541年とする説もある。)
16代となった小山田信有(小山田出羽守)は智勇に優れ、武田晴信(武田信玄)の良き同盟者・一門衆として活躍することになるが、まず郡内領の整備をした。
1542年、秩父より機織や養蚕の技術を導入し産業を開発。郡内領民の保護・育成に尽力し減税するなど、独自の郡内升を導入し、替米制度や大小切法を進め領民の生活を保護した。また、農兵出陣時に、残された家族に不安を与えないよう平時から配慮もされていたとも言う。小山田隊が強いと言われる礎か?
1547年の武田晴信による志賀城攻め。 武田晴信は志賀城の捕虜約3000名を親類縁者がある者には二貫文から十貫文で身請けさせたが、その多くは黒川金山などの坑夫や娼婦、奴婢として人身売買した。
小山田信有は志賀城攻めの際、敵将・笠原清繁の未亡人を助ける為か?買取して、郡内の駒橋(大月)に連れて行き、そこで生涯暮らさせたと言う。
笠原清繁の未亡人は、笠原清繁の正室だったとされるが、出身や名前は不明。2児の母であったとも伝わるが確認できていない。笠原清繁は諏訪氏の一族とする説もあるが、裏付けるものはなく、なにぶん、笠原清繁じたいの出身も良くわかっていない状態である。
1548年、村上義清と戦った上田原の戦いでは武田先鋒左翼隊長として小山田家が得意とする投石部隊を指揮。その他、塩田原の戦い、田口城攻略などで多大な軍功をあげた。
当時は、石を投げつけられると災いが起こるという迷信もあった為、小山田氏の投石部隊の効果は絶大。小山田氏の投石の前に崩れない敵はないとまで言われ、唯一、越後の長尾勢(上杉勢)だけが、その攻撃に耐えたと伝えられる。
1550年、勝沼大善寺の大修復の際には、資金難の武田家の為に一考し、小山田信有は京から有名芸能人を呼び寄せて甲府で記念興業を行い、興行収入により資金を調達した。現在の大善寺はこのときの修復のもので、山梨県初の国宝に指定されたほどの建築物である。
武田晴信(武田信玄)の戦績49勝2敗20分の最大の負け戦と言われる村上義清攻め(1550年10月の砥石城攻め)の際、小山田信有は、武田軍が初めて購入した鉄砲隊を指揮したとされる。しかし、撤退の際、小山田有信は重傷を負ったと言うのが有力な説だ。
1551年9月20日、武田晴信の命により、大井貞清に代わって佐久・内山城の守備についた。
しかし、16代・小山田有信(出羽守)は1552年、僅か34歳で死去。亡くなった理由は良くわかっておらず下記の諸説がある。
(1) 1550年の大ケガが元で、1552年1月23日に死去した
(2) 1552年3月8日の常田の戦いで討死した
(3) 常田の戦いで負傷しその後、死亡した
(4) 円通寺や桂林寺住職らの祈祷にも関わらず、正月23日に病気で亡くなり、25日に葬式をした
(5) ひょっとしたら家臣の裏切りや毒殺、笠原清繁の未亡人の手に掛かったとも考えられ、他国に聞こえが悪い為、病死や討死と言う事にしたとも考えられる。
死因は謎が多くよくわかっていないが、葬儀には国内外から10000人も参列したと言うので、当時の小山田氏の威光がよくわかる。
郡内小山田氏の特色
室町時代後期には郡内小山田氏は都留南部を治めていたが、郡内地方は古来より生産性が低く、経済は豊かではなかった。江戸中期の記録でも郡内は石高約25000石と低い生産性だ。
小山田氏が担う重要な役割として、領内に住む富士浅間神社の御使衆の統制と保護があった。
御使衆とは浅間神社の神職で、居宅を宿坊として富士講の道者(富士登山者)に提供すると言う旅館業をし、小山田氏は富士詣の客から通行税を取った。富士浅間神社は富士登山ができない冬季の閑散期には諸国講中の家々をまわり歩き、祈祷や神札・供物を配布する行脚を行い、多くの旦那を抱え、富裕な財力を誇っていた。
戦国時代は富士詣が最盛期となるものの、駿河今川の没落により東海道の治安が悪化し、御殿場口からの登山は閉鎖。富士登山は唯一、郡内からだけだった時期も長かったようで、関所は駒橋から富士麓まで10箇所の関所通過が必要。1人片道で関所10箇所で支払う総額は244文と言われ、小山田氏の貴重な収入源だったようだ。
小山田氏の御使衆被官化と御使衆の安全(保護)は、郡内の経済面になる「貿易」はもとより軍事面における「諜報(情報収集)」としても有効性があった。また、都留道者の江の島参詣の宿坊として江の島の下之坊に対し要請したり、上吉田浅間社に年中行事や新宮・新神楽所造営を命じるなど、小山田信有(出羽守)が社寺参詣とその統制を通して、権力基盤を安定化させた。さらに、領内の交通網整備と商業政策も行った。
その為、16代の小山田信有(出羽守)の葬儀に10000人参列したこともうなづけ、単なる武田の一家臣ではないことを物語っている。(当時、老人・子供も入れて郡内の領民は約40000人と言われている。)
「郡内」と言う、甲斐と相模に挟まれた土地は、武田と北条の争いに常に巻き込まれたが、1554年の三国同盟により、小山田氏は領内を侵略されずに済むことになっただけでなく、甲斐・相模の治安が安定したことから富士参詣者も益々増えて、税収も増えたようだ。
戦国時代の信濃・甲斐にある諸城の地図(オリジナル)
小山田有信(小山田弥三郎、小山田弥三郎信有) (1538年〜1565年)
武田の高遠頼継攻めにおいては、幼少での初陣ながら戦功をあげ武田晴信より感状を受けたと言われている。
父である小山田信有(1519年〜1552年)には長男であった17代・小山田信有 (弥三郎)の他、次男・小山田左兵衛尉信茂(小山田信茂)、三男・小山田修理亮昌輝(小山田五郎兵衛)、四男・小山田弥五郎義武、五男・小山田八左衛門行村(小山田彦之丞)がいる。
小山田義武には長男・小山田元重、次男・小山田次重がいる。
小山田信有(出羽守)が1552年、34歳で死に、長男であった17代・小山田信有
(弥三郎)が15歳で家督を継ぎ、武田譜代家老衆250騎持ちとなった。
北条氏康が僅か14歳?の小山田弥三郎信有を頼って武田氏に近づき、1554年甲斐・相模・駿河の三国同盟が成立。武田晴信(武田信玄)の長女・黄梅院が小田原の北条氏政に嫁ぐ際には行列を小山田弥三郎信有が取り仕切った。小山田弥三郎信有は武勇にも優れ、小山田勢は奥秋加賀守房吉
小山田掃部 上原能登守 小林尾張守 小山田弾正有誠 加藤丹後守景忠 安左衛門ら騎馬200、雑兵標準900、最大で2000と言われ、武田軍では4位前後の軍事力を有した。小山田隊の軍装は黒で統一された。1557年8月、第3次川中島の合戦が初陣と考えら、武田親族衆として2000の兵を率いた。
また、武田家中からは「文のいることは弥三郎に聞けばよい」と文武両道とも称されている。
しかし、病気がちであったことからも、弟とされる小山田信茂の活躍もあったのではないかと推測される。
小山田弥三郎信有は緒戦で活躍するも、1561年の川中島の戦いでは「立つことが出来ず」と病気で出陣を免除されるなど、この頃には弟の小山田信茂が指揮を取っていたようであり、元々体が弱かった小山田弥三郎信有は、ついに1565年8月20日に病死(28歳)。
子供がいなかったようで、弟とされる小山田信茂(1539年〜1582年)が家督を継いだ。
ただし、小山田信茂と小山田弥三郎信有は同一人物とする説もあり、この家督相続でもかなり推測の域を脱することが出来ない。
原因としては兄・小山田弥三郎が病弱であったために当主の職務を小山田信茂は早くから代行していた為、混乱が生じているのだが、このページでは、兄・小山田信有(弥三郎)を17代、小山田信茂を18代として扱う。
小山田信茂(小山田藤乙丸) (1545年?〜1582年)
小山田信茂の幼名を藤乙丸とされ、16代・小山田有信(出羽守)の次男とする説もあるが、このページでは17代・小山田有信(弥三郎)の弟とする説を支持する。
なお、17代・小山田有信(弥三郎)の弟の説を取ると1565年、20歳前後で家督を継いだことになる。(ただし、1538年生まれ説もあり) いずれにせよ、武田譜代家老衆250騎持ちとなった。
1532年以降、小山田氏の居館は都留郡谷村(谷村城)にあったが、要害である岩殿山城を駿河口、対小田原北条氏の防衛拠点としていた。
1565年?、家督を継ぐに当たって名を小山田弥三郎信茂(小山田信茂)に改めた模様だ。
1568年頃にも戦で活躍した事が伺え、1569年の小田原攻めでは、八王子の高尾で北条氏照勢を撃破。(三増合戦のコーナーで詳細をご案内)
この活躍などで武田軍の中でも一目を置かれる小山田信茂の立場が確立し、武田信玄から絶対的な信頼を得、「弓矢の御談合七人衆」として若輩ながらも馬場信房・山県昌景らの重臣らと軍議に列した。
1571年、富士講振興策として富士道者の増加を図り、関税を半分に減税。
1572年三方原の戦いでも先鋒大将を努め3500の兵を率いた。自慢の投石部隊で徳川家康軍の石川数正を挑発し撃破。投石は約200mの飛距離があったと言う。(当時鉄砲の有効射程距離は30m)武田信玄に勝鬨の音頭の発声を命じられる。
このような武功により小山田信茂は武田最強と評されているが、江戸時代の郡内地方では、徳川家康に勝利した三方ヶ原合戦は「タブー」とされていたようだ。
武田信玄没後の1575年5月長篠の合戦では3200で出陣。先鋒左翼隊長として奮戦するが武田は大敗。小山田信茂勢は討死1000人と武田軍で一番の犠牲者を出しながらも、一時は織田勢の防護柵を破るなどよく戦った。
1576年4月16日、武田信玄の葬儀を恵林寺で快川国師を大導師として執行。この葬礼で喪主・武田勝頼に続き、御影・仁科盛信、位牌・葛山信貞、四番目御剣を小山田信茂が捧持。
武田弱体後は、越後上杉氏と武田勝頼同盟の為奔走するなど、武田の外交面での活躍も見られるが、甲斐とは他国になる諏訪と関係深い武田勝頼を必ずしも快く思っていなかったようで、穴山氏と小田山氏は武田一門衆(親戚衆)として武田信玄の時より独自性を強めて行く。
結果的に織田勢の武田攻めでは、木曽氏の裏切りと、武田から分家した一門衆の穴山氏が織田信長に寝返り、武田は滅亡への道を歩んだ。
北条氏からも知行?していた小山田氏
相模国小山田庄(町田市)や成瀬(町田市)など16村に419貫812文を知行した人物として、小田原北条氏の小田原衆所領役帳(1559年)に「他国集」として小山田弥三郎信有の名が見られる。
北条氏家臣に名がある小山田弥三郎は小山田弥三郎有信と同一人物であったとする説がある。
その理由としては、三国同盟の際、1554年12月武田信玄の娘が北条氏に輿入れする際の記録が残っている「勝山記」にある。
「米岐女(ひきめ)の役は小山田弥三郎殿が担当。全部金銀の鞍に飾りをつけた馬に乗り、新調の衣服したたれに黄金造りの太刀を帯び、行列は一日中郡内を通った。甲州より3000騎、人数は10000人、上野原牛倉神社にて相州より迎えに来た北条勢10000に遠山殿に引き渡し、それを取り仕切る小山田弥三郎は小山田勢を率いて小田原まで新婦を送った」と言う旨が、勝山記に記載されている。
米岐女(ひきめ)役とは、慶事に鏑矢を射て魔を払う音声を発する矢のことで、由緒正しい名家の大将が選ばれるのが慣例となっている。武田晴信(武田信玄)から郡内・小山田氏への信頼が厚かった証拠でもある。
特筆するのは勝山記は、北条勢力が書いた書物ではなく、小山田氏の領内である甲斐都留郡勝山村の冨士御室浅間神社が所有する門外不出の歴史書だと言うこと。小山田氏側が記述した書物に小山田弥三郎と言う名が見られるのである。
小田原北条氏としてみれば、小山田氏を北条家臣として知行させることにより、小山田氏を北条側に取り込みたい、また取り込めなくても、小山田氏を武田が裏切り?と疑うように仕向けたいと言う意図があったと考られるが、実際にその兵糧・金銭が北条氏から小山田氏に流れたのかどうかを確かめるすべは無い。
ちなみに、1582年の武田滅亡時に徳川家康に降った穴山梅雪も、徳川氏からでなく、北条氏からも所領を与えられている。
また、小田原衆所領役帳(1559年)には小山田弥五郎が伊豆川津郷ほかに381貫100文を知行ともある。武田信玄の近習衆(御小姓衆)に小山田弥五郎の名も見られるが、この小山田氏は、武田滅亡後、徳川家康に使えた、石田・小山田氏系であると考えるのが適切か・・。また、小山田弥五郎は小山田信茂自身で武田信玄の御小姓衆に仕えていたとも考える事もできるが証拠はない。
いずれにせよ、郡内小山田氏も石田小山田氏も相模・北条氏と親しい武田家臣だったと言える。
武田氏滅亡の天目山の戦いと小山田氏滅亡
武田勝頼の最後と小山田信茂(小山田左兵衛尉信茂)の最後は、年月日を追ってご紹介したい。なお、月日などは良く分っていない部分もある為、参考として欲しい。
1575年、長篠の戦いで多くの武将を無くし、弱体していた武田勝頼は、1581年、徳川の高天神城攻撃に後詰(援軍)することをせず、結果、武田家の威信を大きく下げることとなり、一門衆や重臣の造反が始まることになった。
そんな中、穴山梅雪の勧めにより、新府城(韮崎)を建設開始したものの、金山の金産出も低下している中、本拠地を甲府から移す反発の他、膨大な軍資金を家臣や領民に課すことになり、武田勝頼と一族・家臣・甲府領民との決裂を決定づけた。
1582年2月、妹の婿である木曽義昌(木曾義昌)が新府城築城のための負担増大への不満から離反し、武田勝頼が木曽討伐の軍を出すと、織田信長・徳川家康連合軍に北条軍も加わった25万の大軍が武田領に攻め込んだ。
1582年2月28日、高遠城を守る武田勢3000に対して、織田軍は30000(53000とも)で攻め、高遠城落城。城主だった武田勝頼の弟で、猛将・仁科盛信討死。また救援で高遠城に入っていた仁科盛信の副将、石田小山田氏系の小山田昌行も戦死。小山田昌行の長男・小山田昌盛、弟の小山田昌貞(小山田大学)も共に戦死。今福昌和・原貞胤も討死。
(3月2日とする説も有)
小山田昌行の子・小山田茂誠(小山田重誠)は、真田昌幸と砥石城(戸石城)に籠ったようで生き残り、武田滅亡後に真田家臣となった。
そして真田昌幸の長女、村松殿を正室に迎えている。石田系小山田氏は、江戸時代真田氏の松代藩においても、真田重臣となり続いた。
武田勝頼は15000で出兵し一旦は諏訪に進軍したが、韮崎にある未完成の新府城に撤退する。
3月1日、武田一族でしかも筆頭と最も信頼して、甲斐の留守を預けておいた穴山梅雪が徳川家康を通じ、織田勢に寝返り駿府へ逃亡する。
穴山梅雪(穴山信君)は、母が武田信虎の娘(武田信玄の姉)で、また妻は武田信玄の妹と言う、武田親族でも最も信頼できる一門衆であった。
3月2日、新府城は未完成と言うこともあり大軍を迎え撃つには不十分と言う判断になり、真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻町)に逃亡するか、小山田信茂の岩殿城(大月)に逃亡するか軍議を開く。
真田昌幸は要害である岩櫃城行きを勧めたが、小山田信茂は、岩櫃城行きが遠路であり、雪が深いことから、岩殿城行きを説く。武田勝頼は一旦は岩櫃城で再起を期すことに決したが、裏切った家臣のほとんどは信濃衆、また先祖代々支配した甲斐の国から離れがたいと言うこともあり、岩殿城まで退却して織田勢を迎え討つことに変更し、最終的に武田勝頼は姻戚関係のある武田一族でもあり古参の小山田信茂の岩殿城行きを決意する。
3月3日、新府城に火を放ち、人質で預っていた木曽氏の母・子などを処刑。約700人の軍と、共の者で出発。甲斐善光寺に立ち寄り、僅か1日で甲府盆地を走り抜け、夕方おそく大善寺(勝沼)に到着。しかし、夜陰にまぎれて、多くの家来が逃走。
大善寺では境内に庵を構えていた武田信虎の弟・勝沼信友の娘といわれる理慶尼(りけいに)が武田勝頼一行を出迎え、厚くもてなしたと言う。この理慶尼が書いた「理慶尼記」は別名「武田勝頼滅亡記」と呼ばれ、武田勝頼の最後の様子を叙事詩的に描いており、現在大善寺に写本が残されている。
3月4日、小山田信茂は母を武田勝頼に人質として差し出し、一足先に岩殿城へ出発。武田勝頼に従う者はどんどん減り、200人足らずになっていたが武田勝頼一行も岩殿城を目指し出発し、途中、横吹(現在の共和地区)で休憩。その後、笹子峠の麓(ふもと)に着く。武田勝頼は駒飼(現在の日影)、家来は鶴瀬に宿泊し、小山田信茂からの迎えの軍を待つ。
※諸説あり、笹子峠から鉄砲で撃ち掛けられ、大月に行けなかったともある。
3月6日、織田信忠らが甲府を占領。
3月7日、織田信忠は一条蔵人の私宅に本陣を構える。以降、武田一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑。一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉などが処刑された。
3月9日、待ちわびた小山田信茂の従兄弟で家人の小山田行村(小山田八左衛門尉行村)が駒飼に来て、武田勝頼に拝謁。翌日の朝、小山田信茂が自身が迎えに来ると述べたが、それはウソで、その夜、人質だった母親を連れて行方不明に。
3月10日、小山田信茂の謀反が明らかとなり、武田勝頼一行は行き場を失う。家来が次々と逃げる中、土屋昌恒の進言で、武田家祖先の墓がある天目山棲雲寺を目指し、そこで最後の戦いを挑むことになる。
早朝、秋山光継(秋山紀伊守光継)、阿部加賀守、金丸定光、土屋昌恒ら残っていた43人ほどの家来と共に出発。初鹿野から日川の峡谷づたいに田野の里に午後到着。大蔵沢まで進むと、辻盛昌(辻弥兵衛盛昌)(1538年〜1612年)(山梨県笛吹市南野呂)が裏切り約300で待ち構えていた。
※近年の調査では、辻盛昌(辻弥兵衛盛昌)は実際には裏切っていないとされている。
田野に戻り、武田勝頼は死出のはなむけにと、死を覚悟した者達だけで息子・武田信勝に家督を譲る儀式を行う。
天目山は残雪を残して寒気厳しく、その夜、疲れ果てた主従の元に、蟄居幽閉を命じていたはずの小宮山内膳友晴が主君の窮地を知り、武田勝頼の元に1人参じた。最後の戦いにて御盾になりたいと進上し許される。
3月11日、山霧の中、武田勝頼は鳥居畑に陣を張り、小宮山内膳友晴は四郎作に陣を構え、天目山の戦いとなる。
四郎作の武田勢は僅か数人で、織田勢の滝川一益、川尻鎮吉ら約4000と戦う。小宮山内膳友晴は十数本の矢を受け討死。
鳥居畑でも武田勢は全員討死。水野田では敵に追いつめられた侍女16人が自刃し、川に身を投げた。
本陣にも織田勢が攻撃開始。武田勝頼、武田信勝、金丸定光、土屋昌恒らは戦うが、武田信勝は鉄砲で打たれ、動けなくなり土屋昌恒に介錯され自刃。(享年16)
武田信勝の最期を見届けた武田勝頼・正室の北条夫人(北条氏政の妹、北条院、桂林院)は、武田勝頼の前で自刃。(享年19)
倒れた北条夫人の近くで武田勝頼も自刃。(享年37) 介錯した土屋昌恒も自刃(享年27)。秋山親久も殉死。
日川の姫ケ淵は北条夫人の侍女16人が日川に身を投げたと言われている。
武田家は滅びた。
黒髪の乱れたる世ぞ、果てしなき思ひに消ゆる露のたまの緒 相模(勝頼夫人)
朧(おぼろ)なる月のほのかに雲かすみ、晴れて行くへの西の山の端 武田勝頼
あだに見よ。誰もあらしの桜花。咲きちるほどは春の夜の夢 武田信勝(勝頼嫡子)
小山田信茂は、最後に織田勢へ寝返ったことにより、多少、知行は減らされても、織田の配下として生き残れると思ったのだろう。
武田滅亡後、すぐに甲府善光寺を本陣としていた織田信忠を訪ね、3月14日に謁見するものの「主君・武田勝頼を裏切るとは何たる失態」と、3月15日、甲府善光寺において、堀尾吉晴の家臣・則武三太夫が介錯のもと小山田信茂は切腹。小山田氏に応じていた秋山万可斎の他、同行していた70歳前後の老母、妻、さらにわずか8才の小山田信茂の子や3歳の娘までもが処刑された。(3月14日、3月24日とする説も有)
※織田信長によって小山田信茂が殺された旨を記載する小説や記述もあるが、3月の時点で織田信長は甲府にはまだ入っておらず、正確には織田信忠(手を下したのは堀尾吉晴の家臣・則武三太夫)が正しいようだ。しかし、織田信忠が大将とは言え、敵将の扱いを独自で判断することが許されていたとは考えにくく、使者を出して織田信長に判断を仰いだと小生は考える。
小山田信茂の数代前に分家した石田系とは言え、小山田を名乗る小山田昌行らが高遠城で抵抗したこともあり、勝敗の体勢が決まった後に帰順してきたこともあり、織田信長にしてみれば、小山田信茂は許すに値せずと言う考えだったのだろう。
なお、小山田信茂の最後には諸説あり、甲斐善光寺に出向いたが、身の危険を感じ善光寺金堂の縁の下に隠れたところを大泉坊という山伏に見つかり、東光寺まで逃げたものの討ち取られた。甲斐善光寺近くに首塚がある。ただし、その首塚に埋められたのは胴体で、首じたいは京でさらされたという説。初狩の随龍庵に遺体を埋めたと言う説もある。
郡内・小山田氏の菩提寺は桂林寺で、現在でも墳墓の跡がある。
4月3日、織田信長が甲府に入り、有名な塩山恵林寺山門を焼く事件が起こる。
4月10日、織田信長、甲府を出発し、富士山を見物して安土への帰路に立つ。
5月15日、徳川家康と穴山梅雪斎は、安土城で明智光秀の接待受け、その後奈良・堺を見物する。
6月2日、織田信長は本能寺で明智光秀に討たれた。武田滅亡から約3ヵ月後の出来事だった。
戦国時代の信濃・甲斐にある諸城の地図(オリジナル)
小山田有信(出羽守)の5男・小山田行村(小山田八左衛門尉行村)に関係ある伝説とされる「折花姫伝説」が相模原市津久井に残る。
折花姫の話は「津久井三姫伝説」のコーナーでご紹介している。
また、小山田信茂の娘や武田勝頼の娘に関連する話として「松姫」もご紹介している。
なお、特筆すべき点として、武田勝頼は滅亡する1年前の1581年1月に新府城を築城開始したが、同年3月20日に岩殿城に兵を入れて、岩殿城をより強固な城へと改修開始している。これを考えると、岩殿城はこの頃武田勝頼の物とも考えられ、小山田信茂が黙って見ていたとしても、すでに武田勝頼に対して快くは感じていなかったのかも知れない。
現在も山梨県で評判が悪い
最後の最後で武田勝頼を裏切ったとされる小山田信茂。
母は武田信玄の姉、妻は武田勝頼の姉と、武田一族でも筆頭だった穴山信君(穴山梅雪)は武田勝頼と対立し、織田勢が武田攻めを開始すると裏切った。。
武田信玄の娘を妻に迎えながら織田信長に寝返った木曽義昌。武田と親戚関係で、尚且つ家族を人質にも取られていた為、木曽家中の誰もが武田を裏切ることに驚いたという。
この3人は現在も山梨県内での評判が悪い。武田側に立ってみれば完全な裏切り、しかもその裏切りもあり武田が滅亡したのだから「信玄公」と今でも慕っている地元民にとっては当たり前とも言える。
ただ、別の見方をすると、穴山氏や小山田氏は武田と親戚ではあったが、もともとは大名と言ってもおかしくない地方勢力の持ち主で、言わば国として武田と深い同盟関係にあっとも言える。その為、武田に忠誠を誓う家臣団ではなく、武田に協力した同盟国(同盟勢力)だったと言ったほうが正しいのかもしれない。
結果論ではあるが、小山田信茂も自ら犠牲となって、織田勢から郡内の領民を守ったとも言える。
そう考えると、もともと武田に屈した木曽氏も含めて、独立性があったこの3人が武田を裏切ったのは、武田と一緒に滅亡するより、独自存続の道を模索したと言って良いのではと感じる。
それを考えると、武田信玄に屈した他国衆(信濃衆)とは言え、最後まで武田勝頼に味方した真田昌幸などは、織田信長に領地安堵されるなど、うまく切り抜けている。
穴山梅雪は武田滅亡後、織田信長から所領安堵されるが、徳川家康と共に安土城で織田信長の接待を明智光秀より受け、その後京、堺と遊覧していた際に本能寺の変が勃発。持病の痔で馬に乗れなかっ事と、持参していた多くの金品を徳川に奪われるのを恐れた為、徳川家康とは別行動を取り徒歩で駿河に戻ろうとするが、現在の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で土民に襲われてあえない最期を遂げた。42歳。
木曽義昌は織田勢の先鋒となって武田勢と戦い、織田信長から木曽谷のみならず安曇・筑摩二郡を加増され、深志城(松本城)も得た。本能寺の変後には小笠原氏の復活により、所領は木曽谷だけになったが、徳川→羽柴→徳川とうまく乗り切り、徳川家康が関東に入ると下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)に1万石を与えられ、移封した。
この木曽義昌は小領主でありながら、うまく戦国を見事生き抜いたと、長野県での評判は良いが、母・娘の犠牲も忘れてはならない。
実際の武田勝頼最後
これまでこのページに記載した武田勝頼最後の出来事は、江戸時代の軍記・甲陽軍艦や甲乱記などに記載されている事項によるもので、武田勝頼が華々しく散ったように書かれている。
しかし、ご存知のとおり甲陽軍艦の記述は疑わしい点が多くすべてを信用できない。実際には、武田を攻めた徳川勢の記録「三河後風土記」により、本当のところがわかってくる。
実際の武田勝頼は、最後の戦闘にも参加することなく、具足櫃の上に腰掛けていたようだ。滝川一益の部隊が鳥居畑で武田勝頼らに追いついた際に、嫡子・武田信勝は防戦し討死。武田勝頼を守っていた金丸定光や土屋昌恒(土屋右衛門尉昌恒)も、滝川一益の家臣・滝川儀太夫によって簡単に討ち取られたようだ。
その直後、側面よりのちの福島正則の家臣・伊藤永光(伊藤伊右衛門永光)が武田勝頼を襲い、一刀のもとに討ち果たして首を挙げたと言う。
伊藤永光の傍にいた津田小平次は、武田勝頼の最期の模様を眼前に見ていたが、武田勝頼は太刀で防戦しようとするものの、飢えと疲労のためか動けず、伊藤永光によって簡単に討ち取られてしまったと、自記に記している。
武田勝頼の首は、伊藤永光の鞍の四緒手(しおで)にくくり付けられ、総大将・織田信忠のもとに届けられたが、首実検の際、多くの大将首が運ばれたため、武田勝頼の首がどれか分からなくなってしまった。当初、小原継忠(小原丹後守継忠)の首が武田勝頼のものとされたが、武田勝頼の首の斬口に、伊藤永光の馬の毛がついていたので、やっと判別できたと言われている。
ようするに、甲陽軍艦などに記載されているように、武田勝頼は華々しく自刃したのではなく、逃げるにも空腹と疲労などで逃げることも適わず、抵抗もできず討ち取られたと言うのが現実だったようだ。とても悲しい最後である。
甲陽軍艦では天目山行には武田勝頼の一団からいち早く逃げたとされている長坂光堅も、最近の研究では武田勝頼に最後まで従って殉死したものとされている。長坂光堅は武田信玄の時代から諏訪郡代に任命されるなど、武田重臣の1人である。
戦国時代の信濃・甲斐にある諸城の地図(オリジナル)
武田勝頼に最後まで従った土屋昌恒とその子孫
武田滅亡時の姫たち 松姫、督姫、貞姫(小督姫)、香貴姫
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相模原の歴史シリーズ 日本歴史 武将・人物伝
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