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相模原歴史シリーズ(超番外編) 八咫烏とサッカー日本代表 |
サッカー日本代表のシンボルマークでもある「八咫烏」
明治時代、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助氏が、熊野那智大社がある和歌山県那智勝浦町出身だったと言うことで、日本サッカー協会は、日本代表チームのシンホルマークとして、勝利に導く、ボールをゴールに導く神様として「八咫烏(ヤタガラス)」を昭和6年に採用しました。
もともとカラスなので、マークも黒っぽいイメージで作られています。
では、その八咫烏とはいったんなんでしょう?
日本神話の八咫烏
日本の初代天皇である神武天皇が九州から近畿への「東征」を行い、日本での実権を握ることになったのと関連しています。
神武天皇の最初の東征の際には、瀬戸内海から最短距離で大和(奈良)に進行する生駒山越えをしましたが、激しい抵抗にあい失敗。
太陽に向かって攻撃したのが良くなかったと、今度は、南から攻める事にし、南紀・熊野から奈良に侵攻しようとしたのです。
ただし、熊野はご存知の通り、深く険しい山がそびえ立っています。
そんな厳しい熊野越えは苦難を極め、道に迷うと、天照大御神が遣わした3本足の八咫烏(やたがらす)が現れて、神武天皇らの軍勢を道案内し、東征から6年目になってようやく無事に大和に入ることができたと日本書紀に記載されています。簡単に言うと、勝利できたのは、烏(カラス)のお導きがあったお陰だと言う事なのです。
八咫鳥(ヤタガラス)は、道案内をしたあと熊野那智大社に戻り石になったと言われ、その烏石(からすいし)が残っています。
大和(奈良)にある橿原神宮の場所は、御祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址とされます。要するに神武天皇(じんむてんのう)が大和(奈良)を平定して、皇居となる畝傍宮を建設した場所が今の橿原神宮の場所であり、絵馬・お守りに八咫烏が使われています。
日本書紀に出てくる東征時の神様の名は、実際の東征に尽力した英雄(人物)を神様として崇めたとも考えられ、三本足とは熊野三党(宇井氏・鈴木氏・榎本氏)を表すのではと言う説もあります。
また、新撰姓氏録では、奈良の葛城を本拠地とした賀茂氏が八咫烏に化けて先導したとされています。現在でも高鴨神社が奈良にあります。
本当のところは、神武天皇を道案内した奈良や熊野の有力者を「大きなカラス」と例えて、感謝を表したような感じなのではないでしょうか?
このような八咫烏は現在でも熊野三山で信仰されており、熊野大社などの境内を訪れると「ガンバレ!日本サッカー代表」の旗も見受けられます。
神武天皇の東征の時期
日本書紀などでは、紀元前660年頃とされていますが、それを裏付ける根拠はなにもありません。
年代が明らかな天皇から逆算していくと、初代天皇・神武天皇は西暦250年頃の人物だと推定されます。
それより以前の日本列島には蝦夷(えみし)が在住しており、神武天皇はまず九州を平定。そして、大和(奈良)に東征し、日本列島での実権を握り、大王(天皇)を称しヤマト王権の中心になったと考えられます。
西暦280年〜290年頃に書かれた魏志倭人伝(ぎしわじんでん)では、邪馬台国の名があります。
なお、神武天皇じたいの実在性にも疑問があるとも考えられており、架空の人物、あるいは崇神(すじん)天皇(15代)の分身?とも考えられています。
八咫烏信仰は中国から?
八咫烏の「咫」(あた)は長さの単位を示す言葉です。約18cmくらいの長さを指し、意味としては「大きい」と表現する場合もあります。それらを考慮すると、八咫とは18cmの8倍=8倍も大きいと言う意味で、八咫烏は大きな鳥と言うことになります。
飛鳥のキトラ古墳の壁画からも中国式の三本足の烏の絵が発見されており、法隆寺の玉虫厨子においても、日輪の中に三本足の烏があるそうです。要するに太陽と関係があるようで、中国の神話では烏は太陽の黒点をあらわす金烏(きんう)とされています。したがって、八咫烏は中国大陸からの伝承と考えるのが妥当と言えます。
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