相模原歴史シリーズ
相模原の旧石器時代・縄文時代


 人類は旧石器時代から相模原でも生活していた

 100万年前の相模原南部は海になったり、陸になったりとの繰り返しで、その後、幾度も箱根や富士山の火山灰が堆積するなどを繰り返した。
 なお、人類はもっと昔の約500万年〜約600万年前(少なくとも200万年前)にアフリカ大陸で誕生したと考えられている。
 約500万年前と言えば、海底山地がプレートの移動に伴い日本列島に衝突し、現在の丹沢山地が形成された時期だ。(ちなみに伊豆半島は約100万年前に日本に衝突。)

 我々日本人を含む非アフリカ人(アジア人など)は、たった2人の女性からの血が受け継がれていることがわかっている。
 約8万5000年前にアフリカを出た小さな集団の中に、その2人の女性がいた。そして、更にその血を受け継ぐ子孫が7〜8万年前には東南アジアに到達し、まもなく日本にも到達したと考えられている。旧石器時代の人々である。
 相模原では40万年前頃に相模川が初めて相模湾へ繋がり、約10万年前から6万年前までに掛けて、相模原段丘が形成され、その頃、箱根山が大噴火し、相模原にも火山岩だけでなく、火砕流も注いだと考えれている。
 そして、氷河期が終わり温暖化により日本は次第に海で囲まれるようになり、現在とほぼ変わらない海岸線になった。その頃、日本に渡っていた旧石器時代の人々は環境の変化に対応しながら争いもなく平穏な生活をしていたと考えられる。約3万5千年前〜2万年前までに田名原段丘が現れ、2万年前〜1万4千年前に最後の氷河期となり、相模原は寒い土地に育つ針葉樹林に覆われた。
 約1万年前からは氷河期が終わり温暖化となり、豊かな縄文時代に入った。縄文時代までは争いごともなく、食料も分け与えるなど、日本列島で暮らす人々は貧富の差がない平等な生活をしていた。
 しかしながら、朝鮮などから渡来系の弥生人が日本に侵入すると、新しい弥生人と、古くから日本に住んでいた縄文人との間で争いが起こるなどして、次第に縄文人は衰退し、日本は弥生人中心の社会になったと考えられている。
 その為、我々を含む現在の日本人のほとんどが、朝鮮から渡ってきた人種の血をなんらかの形で受け継いでいる。
 そんな我々が住む相模原であるが、市域全域で、旧石器時代〜縄文時代の遺跡が多数発見されている。そして相模原市内に、国指定の史跡が2010年現在で4箇所もあるのだ。その国指定の遺跡を中心に、相模原の古い時代を検証したい。

 後期旧石器時代 30000年前〜12000年前  海岸線は現在よりも-100m (20000年前は氷河期)
 縄文時代 12000年前〜2400年前     海岸線は現在よりも +4m (6000年前)
 弥生時代 2400年前〜700年前(西暦300年)


国指定・寸沢嵐石器時代遺跡 約4000年前

 寸沢嵐遺跡(すわらし)は、柄鏡(えかがみ)形敷石住居跡で約4000年前と推定される。中央に正六角形の炉が切ってあり、火を焚いた跡がある。
 敷石住居とは正六角形の炉を中心にして、平らな石を円形に敷きつめた住居跡で、ほぼ完全な状態で発見されたのが特徴。関東地方にみられる縄文時代後期としての典型的な住居遺跡である。
 国指定になったのが、昭和5年と古いので、当時は石器時代のものと考えられていたようだが、現在の区分では縄文時代後期。
 史跡寸沢嵐石器時代遺跡として、敷石を覆う六角形の小屋が整備されており、保存・公開されている。

国指定・川尻石器時代遺跡

 相模川上流域左岸の河岸段丘上に立地する標高141m付近の縄文時代中期〜後期にかけての集落跡。遺跡の下層に縄文中期の竪穴住居址、上層に中期末〜後期前半の敷石住居址などが確認されている。
 縄文後期の敷石住居址は多数発見されており、落とし穴の他、打製石斧(だせいせきふ)、石匙(いしさじ)、石鏃(せきぞく)、石剣(せっけん)、敲石(たたきいし)、石皿(いしざら)、砥石(といし)、石棒(せきぼう)、甕形土器(かめがたどき)、土偶(どぐう)、土製円盤(どせいえんばん)等の出土が確認されている。
 国指定になったのが、昭和6年と古いので、当時は石器時代のものと考えられていたようだが、現在の区分では縄文時代。

国指定・史跡勝坂遺跡 約5000年前

 縄文時代中期前半頃(約5000年前)における日本を代表する大集落跡で60軒以上の住居跡が見つかるなど、関東地方における縄文時期を区分する標式遺跡(基準遺跡)で「勝坂式」と呼ばれる。標高は約70mで遺跡はA〜Fの各区に分けられる。
 勝坂遺跡からは土器のほかに、打製石斧(せきふ)、磨製石斧、磨石(すりいし)、石皿、凹(くぼ)み石、石鏃(せきぞく)などが出土している。とくに、打製石斧の量は多い。そのなかでも、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などの特徴を持つ土器は「勝坂式土器(写真)」と命名されている。また、打製石斧も土を掘るものと考えられ、縄文時代において農耕の可能性を示すものとして注目を浴びた。
 遺跡がある段丘のすぐ下には、現在でもこんとんと湧き水が湧出しており、有鹿神社の奥宮がある。勝坂のホトケドジョウ(相模原市天然記念物)も生息しているようだ。
 2010年4月より「史跡勝坂遺跡公園」として整備も始まり、D地区の南側には竪穴住居1軒、敷石住居1軒が復元されており、実際に建物内部に入ることもでき、縄文人の生活を想像することができる。なおD区北側では、日本での発見例が少ない縄文草創期の住居址状の遺構も見つかっている。
 縄文人は生い茂った森を切り開いて集落を作ったと考えられている。集落周辺では食料として木の実や山菜などの採集住居などの建築材や木製品となる木材伐採や薪燃料など、結果的に集落周辺には、日当たりのよい空間と、土壌ができて、縄文人にとって有用な植物が多く育つ「二次林」が生育していたとみられる。
 D区の西側の崖下となる鳩川付近では自然の湧き水があり、昔から水の調達ができていたようで、川でもドジョウが採れるし、相模原の草原ではシカやイノシシ、ウサギも狩猟でしたであろう。また、ちょっと歩いて相模川で魚も捕ったと考えられる。定住するには条件が良く、縄文村の基本原則が良く解る場所なのでお勧めの見学遺跡。
 登呂遺跡のように多数の住居を復元して、散策路や駐車場を整備すれば、多くの観光客を呼び込めそうな遺跡である。
 なお、勝坂遺跡出土の土器類は相模原市博物館に展示されているので無料で見ることができる。

縄文時代の生活

 縄文時代には氷河期が終わり、マンモスなどの大型動物が温暖化により絶滅。その反面、木の実や魚介類や小型動物が増えたことなどにより、人々の生活は狩猟から採取へと徐々に変わってきた。そして、採取した食べ物を保管したり、木の実のアクを抜くために煮炊きに使うために「土器」が作られるようになったのだ。
 わき水が得られる台地上に集落を形成する縄文時代の特徴で、勝坂遺跡は、まさに典型的な例である。
 ちなみに日本の縄文土器(16000年前の土器)は、年代測定技術に多少の不安要素は残るが、世界で最も古い土器とされている。(勝坂式は縄文中期の約5000年前で、この頃の気候は現在とほぼ同じでだが、ほんの少し温暖化で、平均気温も1〜2℃高かった。)
 なお、縄文時代まで人々は平等な生活を送っていた。
 その後、若干気候が寒くなり始めたので、人々は勝坂よりも暖かい土地を目指して移っていったものと推測する。

勝坂式土器(縄文式土器)

国指定・田名向原遺跡  約20500年前

、国指定史跡としては日本列島最古の部類の建物跡もある約20500年前の遺構。
 相模川左岸の比高11mの低位段丘上に立地している。遺跡の川寄りでは水成層の堆積がみられ、後期旧石器時代には相模川の川岸に位置していたと推定される。
 住居状遺構は直径約10メートルの円形の範囲を円礫(川原石)で囲んだもので、円形の内部からは柱穴12基と焚き火跡2箇所も発見された。また、二次加工をともなう剥片や大量の母岩・石核も集中して見つかっており、旧石器時代人の石器製作の場としても利用していたことが推定される。また、槍先形石器の石材には黒曜石が用いられ、石の成分から推定したところ、多くは長野県産で、その他に伊豆・天城産・箱根産もあるなど、当時より遠隔地との交流があったことも示唆される。成形された石器には尖頭器193点のほかナイフ形石器50点あまりの出土があった。  相模川の川辺に接していたと考えられることから、サケ・マス類の季節的・集約的な漁場につくられた半定住住居として使われていたものと推定される。
 なお、別の説では、集落から離れて孤立していることから、産卵のため相模川を遡上してきたサケをとり、燻製などに加工する作業小屋跡と考える説もあるようだ。
 いずれにせよ、住居状遺構は炭素測定値で約17600年前、暦年較正値で約20500年前とされている。
 また、付近には相模原では貴重な古墳なども見られる。
 史跡田名向原遺跡公園として開園しており、旧石器時代をテーマにした「旧石器ハテナ館」が無料見学可能な他、旧石器時代の住居跡が1、縄文時代の竪穴住居が1、古墳時代の小円墳が1つ復元されている。

■旧石器時代の生活

 約20000年前〜約18000年前はベェルム氷河期の最盛期であり、この頃の日本列島の平均気温は現在よりも−7℃でシベリア並の寒さ。雪も良く降り、海面は現在よりも約100m低かったと考えられる。当時の相模原では草原と亜寒帯樹林、針葉樹林が広がっていたようだ。また、この頃日本では火山活動が活発で、関東ローム層ができるなど、火山灰なども度々降ったようである。(氷河期の終わりは12000年前)
 基本的に狩猟採取生活である。大型動物としてはナウマンゾウ、オオツノシカや野牛などを狩猟するため、小さな集団を作り、川沿いを中心に移動しながら、創意工夫を凝らし狩りをする生活をした。その他に、クリなども採取していたようだ。
 そのため、定住すると言う感覚は無く、短期間滞在するために簡単な小屋掛けをした住居を作ったり、洞窟や岩陰を住居として利用していたと考えられる。
 集団同士が偶然出会うと、石器造りなどの情報交換の他、食べ物を分けたりもしていたと考えられる。


上記地図のポイント地点は駐車場

小保戸遺跡 (こほといせき) 約23000年前

 小生が現在最も注目している遺跡。津久井城跡の南側に分布する遺跡で、比較的最近になって圏央道の建設現場から見つかり、2007年2月1日から発掘調査が開始されている。
 遺跡は相模川の上流部、串川との合流地点付近右岸の河岸段丘(かがんだんきゅう)上に位置して、標高は約132m。現在も調査中だが、中・近世、古代、縄文時代、旧石器時代と、幅広い時代の遺構と遺物が確認されている。
 古代で見ると竪穴式住居跡が発見されている。縄文時代で見ると、縄文土器が縄文前期から縄文後期と、縄文時代全域での出土の他、石器(打製石斧、尖頭器、石鏃など)が見つかっている。そして、面白いのが、縄文時代の落とし穴がなんと360箇所以上あったのだ。落とし穴は、イノシシや鹿などの獲物を捕らえるのに使用したのだろうと容易に想像できる。旧石器時代では、関東ローム層(L1H層およびB1層上部〜下部)から槍先形尖頭器やナイフ形石器が出土している。
 そして、注目すべきは旧石器時代の「住居状遺構」が4基発見された事である。小保戸遺跡の住居状遺構は、木材を組み木にして草や皮で覆ったと考えられる。最も保存状態が良い1基は、直径約3mの円形跡で円状に礫(河原石)が100個ほど並べられ、円の内側にある中央付近からは小さな炭化物が見つかり、炉と考えられる変色した土も確認された。また、礫(河原石)は焼かれたものもあり、熱した石で調理するなどに用いられた可能性も考えられる。
 また、槍先形の石器や小さな石片も多数見つかっており、石器を製作したとも受け止められる。
 まだ人間が定住せずに、移動しながら採集狩猟する生活(キャンプ生活)をしている時代で多くは洞穴や岩陰を住みかとしていた後期旧石器時代において、短期間滞在するための住居として使われたと考えられる住居状遺構が発見されたのだ。放射性炭素測定年代測定値で約19300年前、ほかの測定法を加味した暦年較正値では約23000年前を示した。
 住居状遺構の外側からは多量の石器も見つかっており、石器の製作が行われていた可能性が高い。

 なお、日本最古の住居跡遺構は「はさみ山遺跡」(藤井寺市)の約22000年前とされている。住居内部から石器類が発見されているものの、竪穴式で深さ30cmと縄文時代の住居特徴に似ている。推測するに、古い石器時代の遺構の上に、たまたま重なるように縄文時代初期になってから住居が作られたのでは?と疑ってしまうのは小生だけであろうか? 付近に当時としては考えられない「墓」と推定される遺構があるのも、本当に旧石器時代?と疑問に拍車を掛ける。
 しかしながら、現状としては小保戸遺跡の住居跡が旧石器時代のものと証明することも困難である。でも、近い将来、日本最古の住居跡(日本最古の建物跡)は相模原市の「小保戸遺跡」に変更される可能性も少なからずあるので、今後の発掘調査の進展が楽しみな遺跡である。
 ちなみに、関東地方で旧石器時代の石器類発見の遺跡は多数あるが、旧石器時代の住居跡(建物跡)と考えられる遺構が発見されているのは、田名向原遺跡と小保戸遺跡の2つくらいで、大変貴重な史跡なのである。



 日本では北京原人のように、古代人の「骨」がなかなか発見されないが、これには理由があるのだ。
 日本の特徴と言えば地震国。その地震の原因にもなっているプレートのぶつかり合いによる、火山帯が影響している。火山が噴火した際の火山灰は酸性なので、火山灰が降り注ぐたびに土壌が酸化して、骨は溶けやすくなったのである。
 そんな中、沖縄県石垣島の洞窟「白保竿根田原洞くつ」において、大変貴重な発見があった。イノシシの骨などと共に、ヒトの骨9点が発見され、うち2点が約20000年前、日本最古の人骨であることがわかった。新石垣空港建設地内に所在する長大な洞穴だ。洞窟の土はアルカリ性であり、骨が溶けなかったようだ。2010年夏から冬に掛けて行われた追加の発掘調査でも多数の人骨などが発見されているが、縄文時代などの遺物もあることから、時代が複合している遺跡であることには間違いないが、時代がある程度わかる「土器」が出土しない更に深い堆積層からの人骨も新たに見つかっている。今後の分析結果が楽しみである。


 相模原市博物館に行くと、古代の暮らしの展示があり、学ぶことができます。常設展示は入場無料ですので、是非訪れてみてください。

 参考文献
 相模原市立博物館 「相模原市立博物館 常設展示解説書」
 相模原市立博物館 「必見 津久井読本 -学芸員イチ押し!!-」
 相模原市教育委員会 「国指定史跡 川尻石器時代遺跡 -縄文中・後期の集落跡-」


 縄文人がつけた古い地名  相模原の古墳

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